近すぎる【ケース7】

『「子供を殺してください」という親たち』に関しては、これまでもレビューを書いてきた。
1巻:『「子供を殺してください」という親たち』に見る、家族の問題点
2巻:ひきこもりの実態を描く『「子供を殺してください」という親たち』2巻
3巻:『「子供を殺してください」という親たち』3巻が問う“覚悟”
原作者の押川剛先生がブログで反応してくれたのがとても嬉しかったのだが、3巻レビュー時でも触れたとおり、僕は個人的な経験からこの作品は広く読まれてほしいと思っている。それゆえ今後も可能な限り本作のレビューを書き、薦めていきたいと思っていた。

だが。
4巻については、うまく語れる自信がない。
この巻には、元薬物依存症のキヨさんという人物が登場する(【ケース7】3巻から引き続き)のだが、僕の友人にキヨさんと酷似したケースが起きているからだ。幸いにしてその友人は、医療施設に“つながる”ことができたが、当人とそのご家族にとっては現在進行形の出来事である。この【ケース7】について考えるとき、身近な例を引き合いに出して考えることにどうしても逡巡がある。ノンフィクションの場合、「自分の立場に置き換えて」我が事として考えることが必要となるが、このケースに関しては“近すぎる”のだ。

そのあたりを踏まえつつ、まずは【ケース7】から見ていきたい。

「確信の4巻」

薬物依存の当事者や家族は、医療施設を極端に嫌がる。
それは「通報されるかもしれない」と危惧するからだ。実際、欧米は薬物使用を非犯罪化(合法化ではない)し、薬物依存の患者を刑務所に閉じ込めるのではなく、治療することで社会の健全化を図ろうとしている。
薬物依存の当事者に必要なのは、刑罰ではなく治療なのだ。

しかし、日本では依存症に対する認識が低い。
海外に比べて、そもそも日本では違法薬物に手を出す確率は極めて低いからだ。この国で普通に生活をしていれば、違法薬物など目にすることなく一生を送ることができる。むしろ、そのほうが大多数だと思う。それは本来は幸せなことだ。アメリカでは全人口の48%が生涯に一度はドラッグ(大麻を含む)に触れる機会があるとされるが、日本では1~2%程度という。こうした状況から日本では薬物依存に対する理解はなかなか進まないし、制度的な不備も温存されたままだ。
とはいえ、この日本にも、薬物依存の当事者は確実に存在する。
だから問題が深刻化していく。

【ケース7】のキヨさんは、20年以上、精神科への入退院を繰り返している。それは「薬物依存症」ではなく、「躁うつ病」の患者としての入院治療だ。どれだけ長く入院していたとしても、適切な治療が施されていたわけではない。
依存症の恐ろしいところは、薬物を摂取しなければ改善するわけではないところにある。薬物を断ってからも、後遺症と戦い続けなければならない。これは世間一般に誤解されがちなところだ。「絶てばいずれ良くなる」ことはない。「じっと耐える」だけで改善するものではなく、適切な「依存症の治療」が必要だ。しかしキヨさんは、薬物依存という疾患を、20年以上も放置してきたわけである。
4巻の【ケース9】では10年に渡って“ひきこもり”状態のまま放置された女性が登場するが、キヨさんも同様に疾患を放置し続けたケースなのだ。
それも20年以上も!
いくら入退院を繰り返しても、肝心の依存症に対する治療がまったく施されていないのであれば、それは手つかずのまま放置されていたのと何ら変わりはない。

日本では「依存症は甘え」とする考えを持つ方も多い。
意志の力で、自分の努力で断ち切れるものと考える人は多い。酒やタバコを嗜む程度の人が口にする「禁酒」「禁煙」と同程度に考えられがちだ。だが、アルコールやニコチンにしても、重度の依存症になれば、自分の力だけで断ち切ることはできないし、物質使用を断っても「治った」ことにはならない。脳や臓器へのダメージも大きく、そこから深刻な後遺症が生じる。
3巻ラストの【ケース7:家族の恐怖は永遠に消えない 前編】で、キヨさんを薬物治療専門の病院に転院させたのは、そのような理由に依るものと推測される。警察に通報される危険性が少なく(ゼロとは言わない)、治療の場が安全に保たれていること。そういう場所がないと、依存症はよくならない。
この【ケース7】は、当事者を医療施設に“つなげる”という観点では、このケースは「成功」したことになる。だが、20年という時間はあまりに長すぎた。結果的に不幸な結末を迎え、この【ケース7】は失敗シークエンスのような味わいになっている。

最初に入院した時点で、薬物依存治療専門の医者にかかっていれば。
もっと早くトキワ精神保険事務所を利用していれば。
キヨさんの疾患が進行することも、家族が恐怖に脅かされることもなかっただろう。
それを阻害したものは、何か?
その「何か」こそ、この第4巻で語られる【ケース7】【ケース8】【ケース9】に共通するものだ。
【ケース7】のキヨさんは20年以上放置された。
【ケース8】の知記は、いままさに放置されている。
【ケース9】の美佐子は10年以上放置された。
われわれは、いったい何を恐れているのだろうか。
その“何か”は、当事者と家族の人生を滅茶苦茶にしてまでも、守るべきものだろうか。
“何か”とは、もちろん世間体のことである。

4巻に収録された3つのケースは、物語的には失敗シークエンスが続くことになり、いわば「試練の4巻」ともいえる。だが、この3ケースが1冊に収録されていることにより、「世間体」というキーワードがこれまで以上にクローズアップされる形になっている。
「1~3巻は入門編、この4巻から応用編ですよ」という制作サイドのメッセージが明確に込められた「確信の4巻」といえるだろう。

マンガ的誇張表現をあえて排した画面構成

作画面での注目ポイントとしては、「しぐさ」について言及しておきたい。
キャラクターを個性的にする方法は、奇抜な外観や、派手な言動をさせることではなく、人間らしさを感じさせる点に尽きる。そして人間臭さは、何の気のない所作やしぐさに宿る。
キヨさんの場合、4巻冒頭のタバコを吸う前にトントンとするしぐさが特徴的だ。
このしぐさは喫煙者に見られる動作で、フィルター(吸い口)の側に葉っぱを寄せて密度を高め、味を濃くする狙いがある。このしぐさひとつで「キヨさんはジョイント巻きで大麻を吸っていたのか」とまで考えるのはうがちすぎだろうが、喫煙習慣は相変わらずであるとうかがえる。入院中の彼は薬物を摂取できないが、代替物としてニコチンを摂取しているのだ。
こうしたしぐさと小物を使った演出ひとつで、キヨさんという人物のキャラクター性がより浮き彫りになっている。


もうひとつ本作の特徴として、オノマトペの少なさを指摘しておく必要があるだろう。オノマトペとは擬音語や擬声語、擬態語などの総称で、たとえば「ドカッ」とか「バキッ」といった言葉をフリーハンドで描く音喩表現のことを意味する。戦前のマンガにすでに存在したものの、より多様な言葉を描き文字に転用し、マンガ表現の幅を飛躍的に拡張したのは手塚治虫だ。『「子供を殺してください」という親たち』は、描き文字が極端に少なく、連載が進むにつれてその傾向はより顕著になっている。

同様に効果線も減少傾向にある。
オノマトペにしても効果線にしても、画面をより効果的にするためのマンガ的誇張表現だが、本作はそれに頼ることをしていない。たとえば4巻の【ケース9】の場合、虫が描かれているコマに「ブーン」と羽音を入れたり、あるいはティッシュの散乱した部屋に「ムワッ」という描き文字を入れると、その雰囲気はより伝えやすくなるはずだが、それは同時に出来事を誇張したイメージで伝えてしまう危険性をはらむ。本作にはショッキングなシーンは数多く登場するが、それらの絵をショッカーシーンとして描きたいわけではないという意図がそこに見える。ドキュメンタリーという性質上、出来事が戯画化されて伝わるデメリットを危惧したうえで、あえてマンガ的な誇張を手放しているわけである。マンガ的手法を封じることで、マンガとしての機能を最大限に発揮していることになる。

マンガは、物事の手順を段階的に説明するのに最適なメディアだと僕は考えているが、一方で、読者をミスリードしやすい性質もあわせ持っている。ドキュメンタリーをマンガでやる場合、読む側はマンガが持つ可能性と危険性を十分にも注意する必要があり、少なくとも本作はその点について誠実な態度を取っていると言える。

そしてまた、マンガ的誇張表現を極力排した画面構成は、ある種の静寂さを生む。であればこそ、#15【ケース7:家族の恐怖は永遠に消えない 後編】のラストは、スティングの曲が余韻となって響く。



最後に感想をつけたそうと思っていたが、どうにも何を書いても蛇足になってしまう。
僕たちは何事につけても折に触れて感情を動かされる。だけど強い感情は、自分だけで抱えきれるものではない。怒りとか悲しみとか、表に出せば雰囲気が悪くなる感情ほど、安心できる場所で安心できる人に聞いてもらうことで、他者を通過することでようやくその形を認識でき、自分の心の内から手放すことができるんじゃないだろうか。
『「子供を殺してください」という親たち』に出てくる人々のように、強い感情を手放せず、抱えたまま、気づけば後戻りできない場所にまで行きついてしまう前に。
家族や友人の顔が見えなくなってしまい、ひとりきりで踊る羽目に陥る前に。