不幸な事件

5月28日、神奈川県川崎市多摩区の登戸で多数の児童らが殺傷される痛ましい事件が起きた。この事件の直後の6月1日、今度は東京都練馬区で元農水省事務次官(76歳)が自宅で息子(44歳)を殺害し、「息子があの事件(登戸殺傷事件)の容疑者のようになるのが怖かった」と供述した。

この練馬区での事件のアウトラインはこちら(朝日新聞)で、デイリー新潮の取材記事はこちらで読める。8050問題(7040問題)、ひきこもり、家族間での暴力と、まさに『「子供を殺してください」という親たち』で扱ってきた題材そのままの事件であった。
事件発生以降、『「子供を殺してください」という親たち』は注目を集めている。
本ブログの『「子供を殺してください」という親たち』に関するレビュー記事へのアクセスも増加しており、事件に対する世間の関心の高さを実感している。
既刊についての記事は以下のとおり。
『「子供を殺してください」という親たち』に見る、家族の問題点
ひきこもりの実態を描く『「子供を殺してください」という親たち』2巻
『「子供を殺してください」という親たち』3巻が問う“覚悟”
『「子供を殺してください」という親たち』の「確信の4巻」

こうした折、最新5巻が刊行された。

「親の責任」という言葉の危うさ

はじめに練馬区の事件についての個人的な見解を述べさせてもらうと、殺しに「仕方がない」なんて言い訳は通用しないと思っている。
死について思うときは、そこに社会的な状況や個人的な状況によっては、あきらめを抱かざるを得ない場合もあるし、またある種の諦念は残された者にとって慰めの拠り所となる。だが、それは「死」という不可避の事象についての観想であって、他人を殺害するケースと同一視できるものではない。

前掲の朝日新聞の記事によると、元農水省事務次官は「殺すしかない」との趣旨のメモ書きを残していたらしい。この「殺すしかない」という言葉からは、本作に出てくる家族たちの発する「子供を殺してください」というセリフと同様に、助けを求める悲痛な叫びが感じられるのだが、と同時に、子供の生殺与奪の権利が自分にあるという、誤った価値観も見て取れる。
それは、はなはだしい思い違いだ。
子供といっても、人格を持った別の人間である。
裁くのは司法であり、治すのは医療だ。
自分の思い通りに育たなかったから放置し続け、あげくのはてに殺す……なんてことが許されるはずがない。どれだけ子供の側に非があろうと。

「子供を殺すしかない」「子供を殺してください」というセリフは、「生んだ親の責任」と言えば世間的には聞こえはいいかもしれないが、子供の生殺与奪権が自分にあると勘違いしている親だからこそ発信されるものである。それゆえに『「子供を殺してください」という親たち』というタイトルには、こうした諸問題はあくまで「親と子」の問題であることが示唆されているわけだ。
「親が悪い」とか「子が悪い」ではなく、「親と子の問題」

では殺害に至る前に、家族は何ができたのか?
それを実例を交えながら考えていけるのが、この『「子供を殺してください」という親たち』というドキュメンタリー作品なのだ。

親と子のパス交換

さて、最新第5巻についてだが、それにしてもまたずいぶんと攻めたカバーイラストだ。
この5巻では、4巻から始まった【ケース9:史上最悪のクリスマス】編のラストが語られ、そしてあらたに【ケース10:すべて弟にのしかかる】のシリーズがスタートする。このカバーイラストは【ケース10】に登場する松元誠一である。誠一は自宅にひきこもり、家族に暴力を働き、自傷行為(根性焼き)を繰り返す。

自傷行為といえば、リストカットがポピュラーだろうか。
一般的に自傷行為は「SOSを発するメッセージ」と理解されているが、ストレスの軽減であったり、自己懲罰であったり、その原因は人それぞれだと思う。
ただ、【ケース10】の誠一に関しては、においや外見で周囲(家族)に伝わる方法で行っており、押川に対しては「度胸試し」とうそぶくあたり、自分の抱える問題を周囲に気づいてほしい潜在的な欲求があるように推測できる。

誠一は、何に気づいてもらいたいのか?
誰に、何を見てもらいたかったのか?
そのあたりを念頭に置いてもう一度読み直すと、【ケース10】での親子の抱える問題点がおぼろげながら見えてくるし、それが6巻への布石となっているのだろう。

この【ケース10】での作劇的な表現として僕が注目したのが、#21の冒頭2ページ(P.41~42)だ。
サブタイトルを出すアバンの2ページ、公園で見知らぬ親子がサッカーボールでパス交換(野球でいうキャッチボール)をしているシーンである。おそらくキックミスがあったのか、ベンチに腰かけている松元雄二郎の足元にボールが転がってきて、雄二郎は子供にボールを返してあげる。
何の変哲もない日常の風景だ。
しかし、親と子がパスを交換し、ボールが逸れたときには他者が拾ってあげる……という一連のシークエンスは、この作品がそもそも作中において再三繰り返し訴え続けてきたことに他ならない。
親と子のあいだで、きちんとコミュニケーションを取れているか。
親子の関係に齟齬が生じた場合、社会が支えるべきではないのか。

この冒頭2ページが、原作者の押川剛によって指示されたものなのか、あるいは作画担当の鈴木マサカズによる演出なのかは定かではない。ともあれ、制作サイドにこの作品のテーマに対する高い意識があればこそ生まれたシークエンスであることは間違いない。
そもそも第1巻の「#01【ケース1:精神障害者か犯罪者か】」では、荒井慎介と面会に来た父親とのあいだでキャッチボールが成立しないことで親子間のコミュニケーション不全(と慎介の精神状態)を表現しているので、この親子のパス交換のシーンにも制作サイドの意図が込められていると判断すべきだ。
僕の好きな映画『ブリッジ・オブ・スパイ』(監督スティーヴン・スピルバーグ)の劇中で、スパイ交換のために東ドイツに向かうことになった主人公(アメリカの弁護士)が電車の外を見やると、子供が外で遊んでいて、塀を乗り越えていくところがチラッと映るシーンがあって、それは作品の主題とマッチしたうまい演出だなぁと感心したのだが、それと同質の巧みさを感じる。
本当は制作サイドとしては、より直接的に伝わるように野球のキャッチボールにしたかったんじゃないかとは思うが、でも最近の公園は、ほとんどがキャッチボールが禁止だしなぁ。

そもそもマンガは、1コマ1コマ、一字一句、すべて制作者が是としたものだけが紙面に描かれるメディアである。偶然に映り込むということはありえない。だから、一見すると何の変哲もないようなシーンであっても、意図的であれ無意識であれ、そこには作者の何がしかのメッセージが入ってしまうものなのだ。
だからこそ、僕は隅々まで読む。
そこに作品の豊かさを感じる。

もうひとつ。
よくファミレスが出てくる作品だなぁ、とも思う。
それは実際の押川先生がクライアントと話す場として利用していることもあるのだろうが、第三者のいるパブリックな場で話すことが、とりわけ医療につなぐ必要のある対象者やその家族にとっては大事なのだろう。
ちなみに、出てくるファミレスは毎回違う。Demmy'sだけ2回、かな?

親や子を殺す前に、読むべきマンガ

登戸と練馬の事件で、ひきこもりや家族間の暴力などがにわかにクローズアップされているが、これらの諸問題は、急に生じたものではない。僕らの社会の中に長年にわたって温存され続けてきたものだ。それが事件によって可視化されたにすぎない。
ある意味では『「子供を殺してください」という親たち』は、現代の黙示的な作品といえるが、まだこれは氷山の一角であり、これからより顕在化してくるのではないかと危惧している。

まず何よりも、気づかないフリをしたり、目を背けたりしないことが第一なのだろう。
もう僕らには、『「子供を殺してください」という親たち』があるのだから。