本作ならではの特殊な性質

『「子供を殺してください」という親たち』の連載はすでに2年を超え、このほどコミックス6巻が刊行された。これまで当ブログでは、この作品のコミックスがリリースされるたびにレビューを書いてきた。さすがに6巻目ともなると、作品の内容も「応用編」になっているし、ベースとして共有しておいてもらいたい情報も増えているので、できれば過去のレビューをあわせて参照してほしい。
(既刊についての記事は以下のとおり)
マンガでノンフィクションの連載を続けるのは非常に難しい。とりわけ社会問題を扱う作品ほど、長期連載での成功例は少ない。
以前、第2巻のレビューでマンガというメディアは「段取りを段階的に伝える」ことに適していると記したが、丁寧に描き伝えようとすれば紙幅(=連載期間)を必要とするもので、連載期間中にその社会問題を取り巻く環境が大きく変化してしまうことが往々にして起こりうる。たとえばLGBTQやジェンダーの問題は、ここ数年のあいだに、本当に大きく情勢が変化している。リアルタイムの問題として語っていたはずが、連載中にテーマ自体が「過去の位相」になってしまうことも起こりうるのだ。
だから社会問題を扱う作品は、長年にわたって解決しない問題をフィクションとして成立させる(例:生活保護=『健康で文化的な最低限度の生活』)か、当事者目線で問題が解決に至った経緯を短期で語りきる(例:『よく宗教勧誘に来る人の家に生まれた子の話』全1巻,レビューはこちら)か、いずれかの手法が取られることが多い。

これに対して『「子供を殺してください」という親たち』は、「長年にわたって解決しない問題」をテーマにしつつも、主人公はきわめて“当事者”に近い社会的介入者の立場でさまざまなケースを見ていく。つまりルポルタージュとしての性質を有している点が見逃せない。
現在、ノンフィクションのジャンルは、第三者的な視線でのドキュメンタリーが主流だ。これはジャンル的な流行によるところが大きいとは思うが、近年では当事者的なルポルタージュ(潜入取材を含む)は珍しい。巨大迷路を例にするなら、上空から俯瞰で地図を見せていくのがドキュメンタリーで、迷路内部にいる人の主観映像で報告するのがルポルタージュとなる。
本作は押川の原作を、鈴木がマンガに落とし込むというステップを踏むことで、ルポルタージュとドキュメンタリーの複眼的視座が獲得されている。いわば“いいとこ取り”ができているわけだ。
ここが『「子供を殺してください」という親たち』の特殊性である。
このあたりを、もう少し説明していきたい。

作品としての「フェイズ2」

第6巻では【ケース10】が結末を迎える。
これまでに語られたケースと費やされた話数は以下のとおりで、【ケース10】のエピローグ(5話目)以降が6巻の収録内容となっている。
【ケース1】1話
【ケース2】2話
【ケース3】3話
【ケース4】3話
【ケース5】依頼にならなかった家族たち:1話
【ケース6】3話
【ケース7】2話
【ケース8】依頼にならなかった家族たち:1話
【ケース9】4話
【ケース10】5話
【ケース11】依頼にならなかった家族たち:1話
【ケース12】3話~(現在継続中)
これを見ると、少しずつケースの話数を増やし、複雑なケースも扱えるようになってきたことがわかる。ただ、複雑なケースは、かならずしも(ストーリー的に)わかりやすい話には帰結しない。ノンフィクションとしては当然だが、ここにマンガというメディアとの相性を考慮する必要が生じる。
というのも、マンガというメディアは「段取りを段階的に伝える」ことに適しているからこそ、読者は長期連載作品には「段取りの帰着点」を求めがちだ。迷路内部の視点(ルポルタージュ)や迷路の地図(ドキュメンタリー)が提示されても、読者は「出口への道筋」(オチ)を示してほしい。それは必ずしも「迷路上に矢印を付す」ように、解決策を提示(主張)することではない。
物語に推進力があれば大丈夫だ。

では、マンガにおける物語の推進力とは何か。
第1巻のレビューでは以下のように書いた。
なお、こうしたドキュメンタリー作品の場合、扱う題材自体にインパクトがあるため、登場人物の“キャラ立ち”はさほど重要視されない。というよりも、主人公の個人の物語を織り込むと、ストーリーが多重構造になって、とくに序盤は読者が困惑する危険性が高い。
また、キャラの主張が強すぎると、読者がその出来事について考える余地が生まれず、キャラの論に対する是非に終始してしまう。
そのあたりを配慮してか、元来はアクの強そうな押川という主人公のパーソナルな部分を、極力抑え気味にしているように感じた。各話ごとのケース(移送対象者とその家族)を横軸とし、押川個人のヒストリーを縦軸として、小出しに展開していくバランス感覚は、のちに読者を複雑なケースにもついてこさせるための段階的な仕掛けだと理解したい。
マンガの推進力はキャラクターである。
マンガのセオリーと言ってしまえばそれまでだが、長期連載を牽引する推進力としては欠かせない要素だ。この作品をさらに続けていくには、「主人公・押川」のキャラクター立てが必要となる。話が難しくなっても、主人公に魅力があれば、読者は読むことをあきらめない。

そこであらためて第6巻を読むと、「#25:【ケース10】すべて弟にのしかかる⑤」では、押川が現在の仕事にいたるまでのルーツが明らかにされている。
その直後の「#26」はインターミッション的なエピソードだ。この「依頼にならなかった家族たち」のシリーズは、対象者への掘り下げよりも、なぜ依頼にならなかったのか、つまり「なぜ押川が断ったのか(=主人公のキャラクター性)」に焦点があてられる。
「#25」と「#26」が続くことで、これまで以上に押川のキャラクターを掘り下げていく巻となっている。マンガでノンフィクションを語る際の弱みを、ストーリーマンガの王道的な手法(キャラで引っ張る)で克服しようと意図されているわけだ。題材的には4巻の時点で「応用編」に突入しているが、作品としてフェイズ2の段階に入ったな、というのが第6巻を読んだときに抱いた印象である。

掘り下げられる主人公のキャラクター性

さて、この6巻に収録されたエピソードで僕がもっとも痺れたのは、「#26:【ケース11】依頼にならなかった家族たち ‐聖徳太子の一万円札‐」だ。

これは正誤性ではなく実効性としての話だが、金と暴力には力がある。
要は「話が早い」のだ。手っ取り早い。
そして反社会勢力の人間ほど、金と暴力の力を信じている。むしろ、それ以外を信じていないといったほうがいい。だからヤクザが金を切るときは、暴力を振るうのと同義である。
社会常識とはかけ離れた金額(や迷惑料)を目の前に出された時には、決してひるんではならない。彼らにとって「金にひるむ人」は「暴力に怯える人」と同じだ。

この「#26」に登場する野上幸四郎はアタッシュケースで2億円(旧札)を持ってくるが、これは「不法行為(犯人隠避及び証拠隠滅)の片棒を担がせる」ためである。警察に走った時点でカタギと見られてしまう気負い稼業である点を割り引いても、金で圧力をかけている行為にほかならない。
さらに言えば、野上の「末永く面倒をみてほしい」という言葉は、端的に言ってしまえば「2億円で息子を買い取ってくれ」であり、もっと突っ込むなら「この金で息子を殺してくれ(医者も抱き込んみ済みだ)」を意味している。つまり、ほかのケースでの依頼者とはまったく異なった文脈で「子供を殺してくれ」と言っているのだ。野上もまた『「子供を殺してください」という親』のひとりなのだが、野上の場合は“言外に示唆された”「殺人の依頼」にほかならない。
「子供を殺してください」という親にもさまざまなケースがあるものだと、あらためて再認識させられるエピソードである。

大金を目の前に見せられてひるんだら、弱みを見せたことになる。
付け込まれる。
そうした意識で「#26」を読み直せば、押川と野上のやり取りがただの会話(依頼と拒否)ではないことがわかるだろう。この「#26」では、表面的には「依頼を受ける基準」が押川の口から語られることによって、彼のキャラクター性を見せているように見えるが、野上との水面下でのバトルによって押川のキャラクター性が掘り下げられている点にも注目しておきたい。

正面を向いた構図が生む緊迫感

最後に、マンガ表現的な部分にも触れておきたい。
近年のマンガやアニメはキャラクターの顔を正面からとらえた絵が多い。それは現在のマンガやアニメがキャラクタービジネスとしての性質が強まったことも一因とは思うが、かつてのマンガは横向きや斜め上から俯瞰でとらえた絵が多かったのが確かだ。
わかりやすい例を挙げるなら、『ドラえもん』のスネ夫を思い浮かべてほしい。スネ夫の髪型は、どの角度から見ても3つの鋭角で成立している。劇場用の原作(大長編)では、正面の下からのアオリで描かれることもあるが、通常シリーズでは正面から描かれることはめったにない。つまり、正面から描くことを想定せずにデザインされたキャラクターなわけである。

第2巻のレビュー記事でも述べたように、マンガの文法においては「左側は未来」だ。キャラクターの目線や体の向きによって読者の視線が誘導されるので、キャラクターの顔に角度がついたほうが圧倒的に読者は読みやすくなる。ひきこもり当事者たちの「止まった時間」を動かすのが押川の仕事である以上、押川の視線は未来志向でなくてはならず、左向きの構図が多いのだが、本作において「正面の顔」が意図的に用いられるのが「依頼者との面談シーン」である。
依頼者と真摯に向き合う姿勢が表現されているが、「#26」では押川が野上と対峙する場面で普段より多めに用いられている。表情を崩さない押川と、野上の表情の変化。交互に描くことで、優位性がどちらにあるのかを読者に提示している。読者が退屈しがちな会話劇に、心理戦の要素を付与することで、緊迫感を生んでいるのだ。
このあたり、映画ではカット割りをせず、カメラ位置を固定して長台詞をしゃべらせることが多い。ワンカットの生む緊張感を活かすわけだが、マンガでは1コマごとに彼我の表情を行き来させてもうるさくならない。マンガならではの特性を効果的に活かした手法だ。

ちなみに、本作で押川が利用者に後ろを見せる機会は少ない。正面を向いていることが圧倒的に多く、たまに背後を見せたかと思ったら、椅子で後頭部をぶん殴られてしまう(1巻「#03」)。
本当に大変な仕事だ。