アッシュは何を提案したのか?
『BANANA FISH』の原作が描かれた“当時の世相に依拠する部分”について言及する第2弾。前回は「アメリカの人工妊娠中絶問題」について言及した。
今回のテーマは「イラン・コントラ事件」である。
前回「『BANANA FISH』の作中で描かれる世界情勢は、イラン・コントラ事件を背景にしている部分もあるので、これもまた“当時の世相に依拠する部分”だが、それはまた別の機会に」と書いたが、それについての記事である。
該当箇所は、コミックス13巻。
ブランカがゴルツィネ陣営についたことを知ったアッシュは、月龍の要求に応じ、ゴルツィネに投降。財団の財務部門の主席アナリストとして、大統領首席補佐官(スマイルズ)や将軍との協議に出席する。この協議の内容について解説していきたい。
アニメでは「エピソード19 氷の宮殿」のエピソードだ。
アニメでは9.11以降のアフガニスタン戦争およびイラク戦争を反映した設定に変更され、また名称も架空のもの(タリア、カフガニスタン、反政府組織マリバン)となっていた。
原作でのアッシュの提案は、
・米軍のニカラグア侵攻案には反対(財団に利益がない)
・代わりにホンジュラスを標的にすべき
・バナナフィッシュを使いホンジュラスで反米クーデターを起こさせる
・米軍がホンジュラスに進駐(財団がコカインルートを掌握)
要約すると以上のようになる。
そして米軍の将軍は「…君と話していると悪魔と取り引きしているような気分になってくる……」との感想を述べるのだが、これらの諸要件が何を意味するのかを理解できないと、どういったところが悪魔的なのかが伝わってこない。せっかくアッシュが天才的な頭脳を発揮する“見せ場”なのに、当時の世界情勢がわからないと、アッシュの天才性にいまひとつピンとこないという問題が生じる。
それを正確に理解するためにも、アメリカの外交史を簡単に説明していきたい。
大前提として、
・『BANANA FISH』の時代設定は1985年3月4日からの約2年間
・作中でのアメリカは共和党政権
まずはこの2点をおさえておこう。
バナナ共和国とキューバ危機
第二次世界大戦終結後、世界は西側(自由主義経済陣営)と東側(共産主義陣営)に分断された。いわゆる冷戦時代の到来である。この頃のアメリカは、巨大資本で中米諸国を経済的に支配していた。アメリカの巨大資本が中米諸国にプランテーションを建設し、第一次産品(バナナなど)を安く買い上げており、実質的に「支配-被支配」の関係を構築していたわけだ。このため、アメリカに経済的に従属している中米諸国に対し「バナナ共和国(Banana republic)」という蔑称が用いられた。
「バナナリパブリック」というと、アメリカのアパレルブランドを思い浮かべるかもしれない。メンズシャツはシルエットが格好いいけどアメリカ人規格だから全体的にダボついてしまうのが難点だよな、なんて自分の好みはさておき、「バナナリパブリック」はブランド名が差別的な用語に由来するのではないかと批判されたこともあったようだ。
こうした「バナナ共和国」では、次第に反米的な動きが出てくる。
その代表例がキューバだ。キューバは砂糖を生産してアメリカに輸出していたが、キューバ革命によって親米政権を打倒。ソビエト連邦に接近し、共産主義国となった。アメリカとしては、目と鼻の先に敵対陣営の国が誕生してしまったことになる。
アメリカとキューバの対立がもっとも深刻化したのが1962年の「キューバ危機」だ。
この当時は偵察衛星など存在しなかったから、アメリカは腕のいいパイロットに偵察飛行をさせていた。そうして撮影された航空写真を分析した結果、アメリカはキューバに核ミサイルの基地が建設されているのを発見する。ソビエトがキューバに核ミサイルを持ち込んでいたのだ。アメリカは、喉元に刃物を突き付けられたようなものだった。後世の評価では、このときがもっとも核戦争(第三次世界大戦)に突入する危険性が高かったとされている。
最終的には、アメリカのケネディ大統領とソビエト連邦のフルシチョフ第一書記が電話会談を行い、最悪の事態は回避できた。だが、この「キューバ危機」は、アメリカ政府にとってはトラウマのように記憶され、中米諸国への締め付けを強めていくことになった。
ニカラグアの反政府組織「コントラ」に接近したアメリカ
同じく「バナナ共和国」のニカラグアでは、1979年にニカラグア革命が成功。反米的なサンディニスタ政権が樹立する。※アメリカ、キューバ、ニカラグア、ホンジュラスの位置関係は以下のとおり。

サンディニスタ政権を快く思わないアメリカは、ニカラグア国内の右派ゲリラ勢力「コントラ」に接近。「コントラ」に資金と武器を提供し、反政府活動を支援した。アメリカは、「コントラ」に反米政権を打倒させ、ニカラグアを再び親米国家にしようと企んでいたわけである。こうしてニカラグアは、サンディニスタ政権と「コントラ」による内戦へと突入する。
アメリカの「コントラ」への協力は、ニカラグアへの内政干渉になる。正規のルートでは資金や武器を提供できない。そこでアメリカのCIAが目をつけたのが、民間航空会社で働いていたバリー・シールという男であった。バリー・シールの名前は、トム・クルーズが主演した映画『バリー・シール/アメリカをはめた男』(2017年)の題材になったことでも有名だろう。
バリー・シールはCIAからの要請で、ニカラグアの「コントラ」に金や武器を密輸することになる。正規ルートがダメなら密輸で……、というわけだ。また、コントラの兵士をバリー・シールがアメリカに連れ帰り、アメリカ国内で米軍が軍事訓練を施したりもした。
なお、バリー・シールは、あまりにパイロットとしての腕が優れていたことから、コロンビアの麻薬組織「メデジン・カルテル」のボスであるパブロ・エスコバルにも目をつけられてしまう。
このためバリー・シールは、
・アメリカ→ニカラグア(「コントラ」へ金と武器を運ぶ)
・ニカラグア→コロンビアに寄り道
・コロンビア→アメリカ(麻薬の密輸)
といった悪の三角貿易で巨万の富を築いていく。
アメリカはコントラへの支援を継続するために、バリー・シールの行動を黙認していた。
1981年1月21日に成立したレーガン政権(共和党)は「麻薬との戦争(War on Drugs)」を政策として掲げていたのにもかかわらず。
ともあれ、以上のことを踏まえて『BANANA FISH』の例のシーンを読んでみよう。
ニカラグア上空から撮影した衛星写真に建設中の滑走路が確認され、将軍が「なんとしても介入する口実をつくらねばならない!!」と激昂しているが、その理由が理解できるはずだ。ニカラグアを第2のキューバにするわけにはいかない、というわけである。
イランアメリカ大使館人質事件
ここで話は中東のイランへと移る。
※●赤印はイランの首都テヘラン
イランとレバノン、イラクの位置を確認しておこう。
かつてのイランは、イスラム諸国のなかでも西側諸国寄りで、イスラム教の戒律もさほど厳しくなかった。しかし、1979年にイラン・イスラム革命が起こり、パフラヴィー国王は追放処分となり、イスラム教指導者が実権を握る政権が成立した。
アメリカのカーター大統領(当時)は亡命したパフラヴィー元国王を受け入れた。しかし、このためイランでは反米感情が悪化。首都テヘランのアメリカ大使館が占拠され、アメリカ人外交官が人質に取られてしまった。
このときアメリカ大使館員のうち、6人が事前にカナダ大使宅に逃げ込んでいた。見つかったら殺害される危険性があるため、アメリカのCIAはカナダの映画撮影会社に偽装し、映画のロケハンと偽ってイランに入国。6名を救助して帰国した。
この奪還劇はベン・アフレック主演の映画『アルゴ』(2012年)の題材になり、同作品はアカデミー賞を受賞している。
「イランアメリカ大使館人質事件」は1979年11月4日に発生し、大使館内の人質が解放されたのは1981年1月20日だった。事件発生から人質解放まで、なんと444日もかかった。
任期中にこの事件が発生し、対応を批判されたアメリカのジミー・カーター大統領(民主党)は、大統領選挙で再選かなわず、人質解放の翌日にロナルド・レーガン政権(共和党)が誕生する。
前日を解放日としたのは、イラン側のカーターに対する当てつけだろう。
イランとの裏取引
さて、イランの長年の宿敵といえば、隣国のイラクである。「イランアメリカ大使館人質事件」と時系列的には同時進行となるが、1980年9月22日、イラクのサダム・フセイン大統領はイランの首都テヘランに奇襲攻撃を仕掛け、イラン・イラク戦争が勃発する。
イラクは共産主義国ではないものの、ソビエト連邦とつながりがあり、ソ連製の武器や兵器を輸入していた。イランはイラクに対抗するために、ソ連以外の国から最新の武器や兵器を調達しなければならない。そこでイランが交渉相手に選んだのが、なんとアメリカであった。
レバノンでテロリストの捕虜となっていたアメリカ人を解放するかわりに、アメリカに武器を売ってくれるよう要請したのだ。国交のない“敵国”に武器を売るなど前代未聞だが、レーガン政権はこの裏取引に応じた。ただし、その売却利益は表には計上できない。
では、その金はどうしたか?
レーガン政権は、ニカラグアの「コントラ」への援助資金に流用したのだ。
このときイラン側と「コントラ」側の窓口になったのが、ジョージ・H・W・ブッシュ副大統領(のち大統領になる父ブッシュ)であったとされる。『バリー・シール/アメリカをはめた男』のラスト近くにブッシュ父子と思しき人物が登場するので、その部分にも注目して観てほしい(父ブッシュは声のみの登場で、息子ブッシュをドヤしつける)。
話を『BANANA FISH』の件のシーンに戻し、アッシュがアーサー・スマイルズに対して言い放ったセリフを見てみよう。
「対ニカラグア工作などほっておいても誰かがやってくれる」これは「政府の資金流用(イラン・コントラ事件)は把握しているからな」というアッシュの脅しである。どうせニカラグアには裏でやることはやってんだろ、知ってるんだぞ、と。であればこそ、次のコマでスマイルズが狼狽しているのである。
「――それこそCIAにうってつけの仕事じゃありませんかMr.スマイルズ?」(13巻P.114)
もうひとつ注目したいのが、次のセリフだ。
「ベトナム戦争以来 合衆国国民は政府の反共政策にアレルギーをおこしている」現実の世界では、アメリカは1983年に中米グレナダに侵攻している。
「よほどのことがなければ中米への派兵は認めないでしょう」(13巻P.115)
グレナダはやはりクーデターによって共産主義勢力が政権を奪取したが、「共産主義との戦い」を強く打ち出したレーガン大統領は、グレナダ侵攻を決意した。アメリカにとっては、これがベトナム以来となる大規模な軍事行動であった。
『BANANA FISH』の世界は、こういった時代の話である。
「イラン・コントラ事件」は1986年に発覚し、空前の政治スキャンダルとなった。アメリカ政府はこの事件を頑として認めていない。最重要人物ともいえるバリー・シールは、同年、パブロ・エスコバルの雇った殺し屋に殺された。
コルシカ・マフィアという設定
ここまでの話は、冒頭にも記したように、“当時の世相に依拠する部分”を説明してきた。最後に“現実とは異なる部分”についても触れておきたい。
それはコルシカ・マフィアの存在だ。
フィクションの世界に出てくるマフィアといえば、映画『ゴッドファーザー』(1972年/アカデミー賞受賞)や『グッドフェローズ』(1990年)が想起されるが、これらはイタリア系のマフィアである。コルシカ・マフィアとは、コルシカ人、つまりフランス系のマフィア組織ということになる。不祥事(アッシュによる5000万ドル詐取)を起こしたディノ・ゴルツィネが、コルシカ人財団の「マフィアのテーブル」に召喚され、パリ行きの便に乗った(7巻)ことからも、組織の胴元がフランスにあることが推測できる。
現実の世界でのフランス系マフィアといえば、最大手はフレンチ・コネクションだ。フレンチ・コネクションは単一の組織ではなく、複数のフランス系のマフィアグループが形成した麻薬ルートのことで、別名「コルシカ・コネクション」の異名を取った。アジアの“黄金の三角地帯”からトルコを経由してヨーロッパに入ってきた麻薬を精製し、アメリカへと流していたルートであり、フランス系マフィアはニューヨーク市警察を賄賂で買収して抱き込んでいた。
ただし、アメリカ、フランス、イタリア、カナダらの協力体制により、1970年代にはフレンチ・コネクションは解体に追い込まれた。この1970年代のニューヨークにおける麻薬捜査を題材にしたのが映画『フレンチ・コネクション』(1971年/アカデミー賞受賞)である。
つまり『BANANA FISH』の世界とは、このフレンチ・コネクションが解体されず、90年代まで権勢を振るい続けた世界なのだ。なにしろアッシュが「我が財団の対米収益だけでもメキシコのGNPを上回ります」と言うほどの、巨大なコネクションである。ゴルツィネがニューヨーク市警にまで手を回していたことを考慮すると、フレンチ・コネクションがモデルになっていることが、より浮き彫りになるだろう。
このコルシカ・マフィアの存在こそ、“現実とは異なる部分”なのである。
もし、フレンチ・コネクションが存置されたまま80年代を迎えていたら。
おそらくソ連のアフガン侵攻でヨーロッパに入ってくるヘロインのルートが不安定化し、より安定的なルートの開拓(南米から北米)が望まれたはずだ。ホンジュラスは「南米からのコカインの重要な中継ルート」と作中でも表現されているように、現在ではアメリカに持ち込まれるコカインのおよそ8割がホンジュラス経由とされる。
ヨーロッパ経由のヘロインルートとはまったく異なる中米経由のコカインルートの掌握。これは財団に利益をもたらすばかりか、アメリカを拠点とするゴルツィネのコルシカ人財団に対する優位性も確保できる。「アッシュはパパ想いだな」と。
ホンジュラスは親米で、隣国ニカラグアのサンディスタ政権に対抗するために、アメリカをはじめ反共国の軍が駐留していた。そこで反米クーデターが起きて大使館員や米軍兵士が殺害されても、「イランアメリカ大使館人質事件」とは異なり、国内世論は政権批判には傾かない。21世紀に生きる我々からすれば、アメリカ市民の「USAコール」が容易に想像できるはずだ。湾岸戦争やアフガニスタン戦争、イラク戦争のときのように。
以上が、あの協議におけるアッシュの提案(の背景)である。
原作のこの回が描かれたのは、イラン・コントラ事件のスキャンダルが明るみになったあとだが、その情報がすばらしく消化され、作品に落とし込まれている。わずか10ページ程度に、これだけの“当時の世相に依拠する部分”(時代背景)と“現実とは異なる部分”(フィクション設定)が練りこまれているのだから、本当に『BANANA FISH』という作品は骨太だ。
ちなみに。
最後に余談になるが、今回の記事中で取り上げた映画作品のなかでは、僕は『グッドフェローズ』が大好きだ。オールタイムベストを選ぶときに、かならず上位に選ぶくらい。いささか暴力表現が多いので、そういったものが苦手な人は注意が必要だけど。『ジョジョ』第5部の冒頭はこの作品にインスパイアされたんだな、ってのもわかるんじゃないかな。
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