リリースされた最新の第7巻

本ブログで継続的に扱っている『「子供を殺してください」という親たち』の第7巻がリリースされた。これまで同様、本作の最新刊をレビューしていきたい。当然のことながらネタバレを含む内容である点には留意しておいてほしい。
なお、既刊についての記事は以下のとおり。






第7巻のテーマは?

この最新刊には、6巻からはじまった「【ケース12】ひきこもりダークサイド」の結末と、今巻からあらたにはじまる「【ケース13】最後の取引」が収録されている。
どちらのケースも、対象者は15年以上にわたり、ひきこもりを継続している。そして両ケースに共通するのは、家庭内における父親の不在だ。【ケース12】では両親の別居により、【ケース13】では離婚により家庭内に父親がおらず、「マメに世話を焼く母親」(ケース12)や孫を「甲斐甲斐しく世話を焼いてきた」祖母(ケース13)が過干渉をした結果、事態の悪化を招いた。
つまり、この7巻のテーマは「母性の歪み」といえるだろう。
誤解のないように付言するが、ひとり親家庭が問題なのではない。「子供をないがしろにした価値観の押し付け(過干渉)」が問題となっているわけだ。

僕が興味深く思ったのは【ケース13】だ。これまで本作では、家庭内に原因がある事例を扱ってきたが、その「家族」とは「親と子」の二世代を意味してきた。ところが【ケース13】では、祖母、母、息子の三世代が「家族」として登場する。
それだけに、問題はより複雑化する。
【ケース12】は、対象者が無断離院(早い話が病院からの“脱走”)したり、小児性愛者の疑いがあったりと、センセーショナルなトピックはありつつも、対象者がひきこもりに至ったのは虐待や家族の機能不全が原因であり、本作の継続的な読者には理解しやすい事例といえた。
そこに、同じテーマでありながら、より重層的な複雑さを持つケースを持ってきたわけである。したがって、この【ケース12】と【ケース13】は、順番に並べて提示することでテーマの深化が可能であり、このエピソードの連なりには構成の妙味が光る。虐待と過干渉は、一見すると相反する事象のようだが、子供の意思が尊重されないという点では同じである。
なお、6巻では【ケース12】の直前に、【ケース11】で「強すぎる父権」を印象付けているので、6巻から7巻を通読すると、【ケース12】【ケース13】への前フリとして【ケース11】が機能していることがわかるはずだ。

価値観のアップデート

少し関係のない話をすると、いま喫煙者は本当に肩身が狭い思いをしている。僕が禁煙をしてからタバコの値段は2倍以上になり、喫煙による健康被害の注意書きはパッケージ全面を耳なし芳一のように覆い、自販機で購入するにはtaspoカードが必要になり、路上喫煙を禁止する自治体や、全面禁煙の喫茶店や飲食店も増えた。
この風潮は、ここ十数年の出来事だ。社会の価値観なんて、わずか数年で様変わりする。経済が停滞しているから社会自体がさほど変化していないように錯覚しがちだが、自己責任論やLGBTQ、ジェンダーなど、人々の権利意識は大きく変化した。親と子ほど年齢が離れていれば、同じ日本語をしゃべっているのに会話がまるで成り立たないことだって珍しいことじゃない。だから価値観を日々アップデートし続けなければ、異なる世代(や文化)とのコミュニケーションは、あっという間に成立しなくなってしまう。ましてや日本は、終戦によって価値観が大きく様変わりした国だ。もしかしたら、旧世代のくびきから逃れようとした心の動きが、戦後日本の核家族化という形で表出したのかもしれない。

【ケース13】では、「ばあちゃん」姫岡クニ子の戦前から戦後にかけての半生が明かされる。それは日本社会の暗部に関わるもので、読者はセンセーショナルな内容に目を奪われがちだ。だが、自分が仕込まれた教育(価値観)をアップデートできず、過干渉という方法で孫を(結果的に)“虐待”したと考えれば話は見えてくる。これまで本作で取りざたされてきた「家庭内における親と子のディスコミュニケーション」の問題が、価値観の隔たりが大きい世代間で提起されることにより、よりわかりやすくなっているだろう。

ばあちゃんは、社会の被害者としての側面がある。
とはいえ、彼女は孫に「環境を与える」ことしかできなかった。それは「投資先を見定める投資家の目線」でしかなく、「孫に愛情を注ぐ保護者の目線」にはなりえなかった。「見込んだ人」にゲタを預けるだけで、自分自身はそこに関与しようとはしない。そうした態度は、押川に依頼する際にも見られる。

絵づくりの面白さ

ばあちゃんと貴仁(孫)で、同じ構図(左向きでうつむく)を用いているところに注目したい。現在のばあちゃん、貴仁、過去のばあちゃんで同じ構図を用いているので、読者は知らず知らずのうちに、頭の中でこれらの映像をオーバーラップさせることになる。無意識のうちに「ばあちゃん」と「貴仁」のあいだに通奏する問題があると感じ、家族のあいだに綿々と温存され続けてきた問題に意識が向く。絵を見ているだけで鬱々としたイメージを感じるのには、こうした作画的な技術が駆使されている。
なお、ページをめくって最初に飛び込んでくる絵にインパクトを持たせようとするのが本作の特徴で、この7巻のP.62(「貴仁も40になりますが」のページ)はさすがに吹き出してしまった。ばあちゃんの異常さを際立たせつつも、ダークな笑いでコメディリリーフにもなっている。
すげえことやるな、と。

それにしても、「貴仁さんのお嫁さんはおばあさまが見つけてあげます」と言って、孫の同級生の女の子の写真を破り捨てるくだりは強烈だ。毒親マンガの最高傑作『血の轍』(押見修造)にも同様の出来事が描かれており、この手の話はトラウマエピソードとしてはトップクラスの部類なのだろう。こちらは作者に話を伺った際に「(自身の過去に)似たようなことがあった」と語っていたのが印象深かった。

個人的に「気持ち悪いな」と思ったのは貴仁の部屋だ。
電子レンジが、なぜか台所ではなく、部屋のいちばん奥(普通ならテレビを置くような位置)に配置され、しかも電源が入っていない。「あるべきところとは別の場所にある」だけで、違和感は引き立つ。例えば『ザ・ワールド・イズ・マイン』や『キーチ!!』などのヒット作がある鬼才・新井秀樹は、こういった小物の使い方を雑多の中で行う。食卓に将棋の駒の置物や子供の玩具を描くなど、脈絡のないものが雑にあふれていることで匂い立つような生活感を醸成するのだが、この作品は物の少ない場所でそれを行うことで、生活感のなさを生み出す。こうした絵づくりの面白さにも言及しておきたい。


最後に、やはり新型コロナウイルスについても考えなければならない。
「三密」によって感染の危険性が増す新型コロナウイルスは、いうなれば、自分にとって大事な人間にこそ伝染させやすいという、本当に底意地の悪い性質を持つ。家族間での親密なコミュニケーションを避けることで悪化させてきたひきこもり的事象を、この「三密」回避の状況ではどのように対処すればいいのか。家の中でゆるやかに病を悪化させ続けていくよりほかにないのだろうか。
いま我々は、価値観のアップデートを迫られている。
「コロナ前」と「コロナ後」で、この作品がどのような変化を見せるのかについても、見守っていきたい。