ありこさんのシーンで、ふと思った感想

2020年8月9日に『この世界の片隅に』がNHK総合で再放送されたのを機に、最近ぼんやりと「砂糖」について考えていたことを書く。

冒頭、すずさんがおつかいに出かける「冬の記憶」(昭和8年暮れ、原作では昭和9年1月)は、昭和恐慌(昭和5年)に端を発する経済不況を脱した頃で、日中戦争(昭和12年~)が開戦して戦時経済に突入する前という時期。比較的、経済が安定していた時代であり、チョコレートもあればキャラメルもある。
戦前から終戦直後の日本人の砂糖消費量については、wikipediaの記述によると以下のとおり。
この砂糖生産の拡大と生活水準の向上によって砂糖の消費量も増大し、1939年には一人当たり砂糖消費量が16.28kgと戦前の最高値に達し、2010年の消費量(16.4kg)とほぼ変わらないところまで消費が伸びていた[25]。しかしその後、第二次世界大戦の戦況の悪化にともない砂糖の消費量は激減し、1945年の敗戦によって砂糖生産の中心地であった台湾や南洋諸島を失ったことで砂糖の生産流通は一時大打撃を受け、1946年の一人あたり消費量は0.20kgまで落ち込んだ。
出典を確認していないのは申し訳ないところだが、昭和14年にピークを迎えたとあり、昭和8~9年の段階でキャラメルやチョコレートが商店で普通に購入できたのも納得でできる。それが太平洋戦争(昭和16年)が始まると徐々に減少していく。周作と円太郎が江波の浦野家を訪れた際に森永ミルクキャラメルを手土産に持参しているが、もうこの頃(「第1回 18年12月)でかなり貴重品だったはず。すずさんが水がめに砂糖を水没させた頃(「第13回 19年8月」)になると、原作で同回の冒頭に「八月ヨリ砂糖ノ配給ヲ停止」の貼り紙があるように、もう砂糖は闇市で手に入れるしかない。たった5年や6年で、そこまで生活環境が一変してしまったことに、あらためて「戦争の怖さ」を感じる。
ただ、本当に砂糖消費量が底をつくのは戦後で、空襲を経験しなかった田舎の祖母が「戦後のほうが苦しかった」と言っていたのを思い出す。

藤子不二雄A『まんが道』では、満賀道雄が学校で配給された肝油を食べて「アンマーイ」と叫ぶシーンが昭和20年。「昭和二十年……そのころの子どもたちにとって、甘いものはまさに宝物だった。」とモノローグが入る。肝油は砂糖は使っていないけど、糖衣がかかっていて、かつては甘いものを当たり前のように摂取できていた世代からすれば、まさしく「宝物」に映ったのだろう。昭和9(1934)年3月生まれ、終戦時に小学6年生だった安孫子元雄先生の、「甘いものへの渇望」がリアリティをもって作品に落とし込まれている。
なお、現実の安孫子先生は、その前年7月に富山市山崎村(現在の朝日町)に疎開に出ており、高岡に戻ってくるのは終戦後の昭和20年9月。才野茂(藤本弘)と一緒に学校にいるとしたら、終戦直後ということになる。

映画『この世界の片隅に』では、ラスト近くでのすずさんのセリフが原作からは変えられており、お米や大豆を「海の向こうからきた」ものと、すずさんが認識しているように描かれている。砂糖もまた、そうした「海の向こうからきた」ものであったのだなぁ、と映画を見ていて再認識した次第である。

なお、2019年公開の『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』は、現在Amazonプライムで購入可能。




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