『ウィッカーマン』について
今年2月末に日本公開となり、早く観ようと思っていたところ、新型コロナウイルスの感染拡大によって劇場に行けなくなってしまった『ミッドサマー』。Amazonプライムの配信でようやく観たので、それについての感想を記しておきたい。本作『ミッドサマー』が下敷きとしているのは『ウィッカーマン』(1973)で間違いない。
『ウィッカーマン(1973)』は、匿名で行方不明者の捜索を依頼されたスコットランドの警官が、ケルト系の土着信仰(ペイガニズム)が色濃く残るサマーアイル島を訪れ、島の人々の非協力的な態度や反キリスト教的な文化に翻弄されながら、行方不明者の行方を追っていくサスペンス劇。セルティックな歌と踊りによるミュージカル調もあって、神秘性と不気味さが混在し、独特なムードを醸成している。主人公のハウイー警部が、婚前交渉を拒否する敬虔なクリスチャンであり、であればこそ彼が島に“招かれた”理由となっており、作品全体を通じて外来宗教(キリスト教的価値観)と土着信仰の衝突がモチーフとなっている。
この作品はのちにニコラス・ケイジ主演で、ハリウッドでリメイクされた(『ウィッカーマン(2006)』)。
アメリカ映画になったことで、作品舞台はスコットランドからアメリカに移り、ペイガニズムは独自宗教に置き換えられている。ワシントン州の孤島としてのサマーアイル島では、養蜂を生業とするアーミッシュ風の生活様式が描かれ、島では女性が支配者として君臨している。女王蜂をイメージさせる閉鎖社会となっているが、宗教部分の掘り下げが浅く、『ウィッカーマン(1973)』ならではのスペシャリテ(外来宗教と土着信仰の衝突)がスポイルされてしまった。このため、もともとの作品に備わっていた神秘性は皆無と言っていい。
『ウィッカーマン(1973)』は諸事情によりフィルムをカットしまくった結果、わずか90分弱の上映時間にあらゆる要素がギュッと濃縮された、本当に無駄のない傑作となった。それに対し、『ウィッカーマン(2006)』は無駄な要素(繰り返される夢シーンや、ニコラス・ケイジを意地でも動かせたいアクションシーン)が多く冗長で、また主人公の瞬間湯沸かし器のような性格にさっぱり共感できず、最終盤の「なんでもかんでも口頭で説明します」的なネタばらしシークエンスには閉口するばかりで、疑いようのない凡作といえる。
『ミッドサマー』を視聴済みの方に唯一オススメできる点としては、「熊になる」という共通点が見い出せることぐらいだろうか。
ともあれ『ウィッカーマン(1973)』は傑作で、僕も大好きな作品なので、こちらは強くオススメしておきたい。
現代的な『ミッドサマー』のホラー要素
さて『ミッドサマー』に話を戻すと、この作品は『ウィッカーマン(1973)』にあった「外来宗教と土着信仰の衝突」がうまく成立している。そもそもキリスト教は、その版図を拡大する過程において、異教の神を「悪魔」と断じたり、文化的風習を接収(例:クリスマスやハロウィン)したり……と、他宗教を征服してきた歴史がある。キリスト教的エスノセントリズムが、キリスト教化する前の土着宗教によって反逆されるという、「キリスト教圏の人間にとってのホラー」としての側面が強く打ち出されている点で、この『ミッドサマー』は『ウィッカーマン(1973)』の正統な後継者といえるだろう。
主人公ダニーの恋人の名前が「クリスチャン」である時点で彼の行く末が察せられるものだが、クリスチャンを(共感できないレベルの)クズ人間として描写することで、『食人族』や『グリーンインフェルノ』に見るような、“文明人”が“未開社会”に絡めとられていくモンド映画的なエッセンスが意識されている。多様性が叫ばれる現代だからこそ、この「呑み込めない異文化」の恐怖はいや増すのであり、現代ホラーのテーマにふさわしい時代性が備わる。
ホラー映画であるからスプラッタ要素もあるのだが、馬鹿ゴア(明らかにやりすぎな“殺し方博覧会”要素)はない。残酷シーンには“作り物感”があるので、ゴア好きには物足りないかもしれないが、むしろそのおかげでスプラッタが得意ではない方にも心理ホラーとしてオススメできる。
少し設定的な部分でアヤをつけるなら、ダニーがクリスチャンの仲間に会ったとき、スウェーデンのホルガ村出身の留学生ペレからスマホの写真を見せられたときに「去年のメイクイーン、女王だ」と説明しているが、のちに夏至(ミッドサマー)の祝祭を「90年に一度」と解説している。
「写真で過去のメイクイーンを見せる」要素は、『ウィッカーマン(1973)』では主人公ハウイー警部が手掛かりをつかむ重要なシークエンスとなっているので、その部分に引きずられたようにも思えるがどうだろうか。矛盾や食い違いは、作中に存在しても構わないが、もう少し引っ掛かりを感じさせないような処理が必要だったかもしれない。
それにしても「90年に一度」って、ハーシェル・ゴードン・ルイスの『2000人の狂人』じゃないんだから。こちらは南北戦争で滅ぼされた南部の町の亡霊がよみがえり、北部からの旅行者を殺戮するという、南部ゴシック文学(ウィリアム・フォークナー『サンクチュアリ』など)の系譜(『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』『悪魔のいけにえ』など)の典型。スプラッタ映画の先駆的な映画と位置づけられているので、映画史的にも価値がある作品である。南部の町プレザント・ヴァレーがよみがえるのは南北戦争から100年後の1965年であり、この作品での祝祭は「100年に一度」。
ちなみに、『2000人の狂人』のリメイク版である『2001人の狂宴』は、製作はイーライ・ロス(劇中にカメオ出演も)。このイーライ・ロスが、のちに『グリーンインフェルノ』の監督となる。
ともあれ、こうした「田舎に行ったら襲われた」系の映画は、多様性が求められる今だからこそ“怖さ”が強化されるのだと、『ミッドサマー』は気づかせてくれたわけである。多様性は大事だけど、だからといって何でもかんでも需要できるわけじゃなくて、その折り合いをどこに持っていくか。とても現代的なテーマといえる。
「太陽編」の過去パート
「外来宗教と土着信仰の衝突」という点で思い出されるマンガというと、手塚治虫『火の鳥』「太陽編」を挙げたい。「太陽編」は白村江の戦いで敗れた百済の王族ハリマが倭(日本)に渡って壬申の乱(672年)に巻き込まれていく過去パートと、地上を支配する光一族とそれに反抗する地下組織シャドーの抗争を描いた未来パート(21世紀)が同時進行し、やがて過去と未来が合一されていく壮大な大河エピソードである。なお、手塚の死によって、「太陽編」が実質的な『火の鳥』の最終エピソードとなった。この「太陽編」では、壬申の乱(世俗の権力闘争)の裏で、外来の新宗教(仏教)が日本の土着信仰(アニミズム)を駆逐していく霊的な戦いを同時進行させ、仏教伝来という史実における事象を「ホトケ対カミ」の戦いとして可視化している。もともと『火の鳥』シリーズでは、国教としての仏教を描いてきていた(「鳳凰編」など)し、個人的なことを言えば『ブッダ』を通読した後に「太陽編」に触れたので、仏教を明確な外敵(征服者)として描いている点に驚かされた。
(余談だが、ニール・ブロムカンプの『エリジウム』のストーリー設定が「太陽編」の未来パートとそっくりで、現在の格差社会をテーマとする際にも再び『火の鳥』はよみがえってくるのだな、と思った次第である)
なお、アメリカドラマ『アメリカンゴッズ』は、世界中からアメリカへ渡った移民が、自分たちの神を新天地に持ち込んだという世界観が特徴的だ。「信仰されなくなると力が弱まる」設定が抜群で、信仰されなくなったオールドカマー(北欧神話やアフリカの神)は力を失い、ニューカマー(キリスト教的文化圏)が力を持って世界を席巻しており、オールドカマーの神々が結託してニューカマーに対抗しようとするストーリーである。これもまた「外来宗教と土着信仰の衝突」の亜種であり(もちろんアメリカ大陸における本当の土着信仰はネイティブアメリカンの信仰だが)、こうした人ならざる者同士の壮大な戦いは、つねに胸を躍らされるとともに、文化の衝突についていつも考えさせられる。
価値観を共有できない文化との衝突という意味においては、藤子・F・不二雄『ミノタウロスの皿』が白眉であろう。36ページの短編にこの難しいテーマをスッキリと収めるストーリーテリングの手際良さは、さすが大御所の御業。現代的なテーマを扱った作品に出くわすたびに、われわれはいつも手塚治虫や藤子・F・不二雄と対峙する羽目に陥るようだ。
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