日本社会のトラウマ

6月27日は松本サリン事件が起きた日だ。
あの事件から23年が過ぎた。今日、オウム真理教による一連の凶悪事件は「一部の狂信的な集団が起こした理解不能な事件」として処理されることが多い。事実、一般的な社会生活を送る我々からすれば、オウム真理教には不可解なことが多すぎる。今に至るまで、我々はオウム真理教に対しては完全に思考停止状態のままだ。

メディアにおけるオウム真理教は、事件関与が発覚する以前は、「珍奇な格好をした集団」としてネタとして消費されていた感があった。「(あんな変な)宗教団体が犯罪に関与するはずがない」もしくは「疑わしいが、相手が宗教法人である以上は慎重にならざるを得ない」といった空気が確かに漂っていた。ところが、事件への関与が発覚して以後、その風潮は「すべてオウムのしわざに違いない」へと反転する。自分たちが理解不能な相手に対しては、憎悪の感情を剥き出しにすることを、社会全体が容認してしまったかのようであった。
その風潮は、現在まで続いている。
感情を剥き出しにする術だけを社会に残して、その発端となったオウム事件は、非当事者の間では風化しつつある。我々の社会はオウム真理教を理解不能なものとして一旦棚上げしたまま、「なぜあのような団体が生まれたのか?」「なぜあのような事件が起きたのか?」の問いに対する明快な回答を持ち得てこなかった。
日本社会は、あの事件をまだ総括できていない。

だが、世の中の物事を「理解可能/理解不能」で切り分け、「理解不能なもの」を徹底的に排除しようとする社会的な潔白さは、自分たちを絶対正義と信じて疑わないオウム真理教のマインド構造に似る。オウムを毛嫌いするあまり、社会全体がオウム的な思考に陥ってしまっている
だからこそ、あえて言いたい。
オウム真理教事件は、日本社会にとってトラウマなのだ。


フランスで出版された『MATSUMOTO』

日本の社会がオウム真理教事件を消化できていないのは、マンガの世界に顕著である。
日本のマンガはさまざまな題材に取り組んできたが、いまだにオウム真理教事件を扱った作品は皆無だ。『電波の城』(細野不二彦)や『カリスマ』(西崎泰正)のように、オウム真理教をモデルにした教団が作中に登場する作品はあるが、オウム真理教そのものを題材にしたものは見当たらない。
テレビの特番は『矢追純一UFOスペシャル』のようなおどろおどろしいBGMをつけた演出過多な内容で「まだ終わっていない」を繰り返すばかりなので論外として、映像の分野では『A』や『A2』(森達也)、活字ノンフィクションでは村上春樹の『アンダーグラウンド』や『約束された場所で』などの作品がある。しかし、マンガにはない。マンガにはフィクションもノンフィクションも、ルポルタージュも、エッセイもあって、これだけ表現形態が多いメディアだというのに。
被害者や被害遺族への配慮……という面もあるだろうが、東日本大震災の時に業界全体がビビットな反応を見せたことを考えれば、マンガ業界はオウム真理教事件を「理解不能なもの」として蓋をしてきたと言わざるを得ない。

オウム真理教事件を題材にしたマンガ作品は、思いもよらぬ形で出版された。2015年、フランスのGlénat(グレナ)社からバンド・デシネとして刊行されたのだ。それが『MATSUMOTO』(原作:LF・ボレ、作画:フィリップ・ニクルー)である。
その翻訳版が、今年(2017年)2月に日本でも発行された。


日本マンガとの違い

さて、本作を読む前に、事前に理解しておきたいことがある。
日本のマンガ・スタイルに慣れた読者にとっては、フランス語圏のバンド・デシネや、アメリカン・コミック、グラフィック・ノベルは、非常に読みにくく感じるものだ。
コマで割られて、絵と文字で表現されている点は同じだが、物語るための文法が違うので、大きな戸惑いを感じることだろう。
日本のマンガは、たとえばキャラクターが首を振るシーンであれば、同じコマの中に顔をふたつ描く。そして、ふたつの顔のあいだに効果線を引くことで、動いている様子を表現する。そこに、さらに漫符(汗マークや怒りマークなど)を記すことで、「怒って反論している」とか「焦って否定している」などの表情が際立ってくるわけだ。これを連続するコマで描く場合も多い。
あるいは会話シーン。1コマあたりのフキダシ数は、多くても2~3個程度にとどめるのがセオリーとされる。登場人物たちが長い会話をする場合は、コマを変え、構図を変え、吹き出しを重ねて会話劇を展開していく。映画でいえば、カットを割って会話シーンを繋げていくようなものだ。
いうなれば日本式のマンガは、連続するカット(コマ)で動きを表現することに特化した表現技法を採択している、といえるだろう。

一方でアメコミ、バンド・デシネ、グラフィック・ノベルは、動きの表現を重視しない。止め絵としての、イラスト的な完成度の高さを追及する傾向にある。
また、コマ1つが映画のカメラワークに相当している。そのため同じ場所で会話が続く場合、日本マンガのようにコマを割らず、1コマの中にフキダシを幾重にも詰め込む。日本マンガに慣れた読者にとっては、マンガを読んでいるというよりも、セリフのついた映画のコンテ集を読んでいるような感覚になるだろう。1コマ当たりの情報量(色、ネーム)が多いので、日本マンガのようにガンガン読み進めていくことはできない。そこにストレスを感じる読者も多い。それは昭和30年代の復刻マンガを読むときのような「読みづらさ」と似ているかもしれない。
ともあれ、両者の違いを事前に承知していれば、あまりストレスを感じることはないはずだ。

閉鎖社会での成功体験と、そこで得られる充足感

『MATSUMOTO』は、冒頭に「この作品は事実に着想を得た創作であり、人物、場所、事件等は架空のものです。」とあるように、フィクションである。
しかし、迫真のイラストで洗脳の様子やサリン事件の被害状況が描かれていくので、読者はセミ・ドキュメントと捉えてしまう。事実と相違がある点については承知しておくべきだ。

物語の舞台は1993年5月のオーストラリアから始まる。
教団はオーストラリア西部・バンジャワンに広大な牧場を取得し、教団化学部門最高執行責任者がそこでサリンの実験を行う。
(※注:現実のオウム真理教もバンジャワンに土地を取得している。オーストラリアでサリンの原料が入手できたかどうかは不明なので、作中のようにサリン実験が行われたかどうかは定かではないが、教団はオーストラリアで核兵器開発のためのウラン採掘を計画している。このとき仮にウラン鉱石を入手できたとしても、それを日本に輸入したり、濃縮したり、兵器に転用するのは現実問題として不可能だ。このようにオウムの計画は、はたから見たら非常にアホらしい。アホと言って語弊があるなら、誇大妄想的で幼稚、と言うべきか。教団内部には優秀な理系出身者も多かったそうだが、アホらしすぎて「問題なし」と放置したのか、あるいは巷間言われているように教祖(や上司)に逆らえなかったのか、いずれにせよ破壊活動に向かう教団のベクトルは修正されることなく、しかし組織は徐々に推進力を得ていき、気づいたときには誰にも制御できないほどの暴走状態に陥っていたのではないだろうか)

本作には3人の主要登場人物がいる。
ひとりは前述の教団化学部門最高執行責任者である34歳の科学者。
ふたり目は教団へ出家したものの、教祖に疑問を感じている信者カムイ(架空のキャラクター)。彼の目を通じて、教団のグロテスクさと洗脳の恐ろしさが描かれていく。
そして三人目は被害者となる金物屋の店主。農薬からサリンは作れないのに、教団の関与が示唆されていたのに、彼は犯人のように扱われてしまう。このキャラクターを通じて、現実の松本サリン事件において河野義行氏の身に降りかかった冤罪未遂と報道被害という側面が再現される。

僕が注目したのは34歳の教団科学者だ。
彼は若い女性を伴う教祖に「あれで弟子たちには『忌むべき物欲の世界に背を向け禁欲しろ』って言うんだからな!」と思いながらも、サリン散布に向かう教団の力学にはなんの疑問も抱かない。
タスク達成、権限の拡大、新規ミッションの責任者に任命される……という、一般社会では何十年もかかる出世のプロセスが、教団内では一足飛びに経験できる。
おそらく現実のオウム真理教の幹部たちも、階級社会における充足感に酔う部分もあったのではないだろうか。教団という共同体での成功体験は「自分から進んで信じたいものを信じていく」マインドコントロールを補強しただろうし、だからこそ教団の先鋭化に歯止めがかけられなかった、とも推測できる。
発端は、確かに教祖の狂気だ。だが、組織がそれを加速させた。
だからオウム真理教事件の場合、実際に犯行に手を染めた者が刑事責任に問われるのは当然として、組織全体にも道義的な責任があると僕は考える。
出家というシステムはオウムに限らずあらゆる宗教団体が昔から採用してきたが、ゲーテッド・コミュニティの閉鎖性をカルトに向かわせないノウハウは、伝統宗教には存在するのだろうか?


わかりやすい結末は存在しない

いずれにせよ『MATSUMOTO』は、「なぜ事件が起きたのか」の問いに対する“わかりやすい”結末は用意していない。地下鉄サリン事件が起きたところで、物語は結末を迎える。
事件を知る人であれば、「あれが抜けている」「あれが描かれていない」などの感想もあるだろうが、なにしろほとんど初めてと言っていいオウム真理教事件を題材にした作品なのである。それも、フランス発で。
この作品を嚆矢として、日本でもオウム真理教事件を題材にした作品が続くことを願いたい

オウム真理教事件以降、日本人のあいだには宗教に対する強烈なアレルギーが生じた。
だから僕は、今後似たような事件は、少なくとも宗教の中からは出てこないと思う。だが、別の形を借りて噴出してくる危険性はある。
組織の論理によって先鋭化した集団には、自浄能力は働かない。
まずは身近な誰かと『MATSUMOTO』の感想を話し合いたい。
僕たち自身がそうなってしまわないように。