ジョージ・A・ロメロの功績

7月16日、映画監督のジョージ・A・ロメロの訃報が伝えられた。
ロメロは「ゾンビ映画の父」と称されるように、現代におけるゾンビ像を確立した偉大な映画監督である。もともとゾンビは、ブードゥー教の伝承では屍体を使役する術だった。ネクロマンシー(死霊魔術)の一種であり、いわばキョンシーにも似た存在だったが、リチャード・マシスンの小説『アイ・アム・レジェンド』(旧邦題は『吸血鬼』および『地球最後の男』)から着想を得たロメロが、「蘇った死体」に「人を襲う」とか「噛まれた人もゾンビになる」といったヴァンパイア的特性を付与して、現代的なゾンビ像を作り上げた。いま我々が「ゾンビ」と聞いて頭に思い浮かべるものは、すべてロメロに由来するものと思っていい。
ロメロがネタ元としたマシスンの小説は、これまで3回映画化(『地球最後の男』『地球最後の男 オメガマン』『アイ・アム・レジェンド(Amazonプライム版)』)されており、藤子・F・不二雄も1978年に『流血鬼』(『藤子・F・不二雄大全集 少年SF短編 1』に収録)というタイトルでマンガに翻案している。いずれも設定や結末が異なるので、見比べてみると面白いだろう。

ロメロのゾンビ作品は、おもなところでは旧3部作(『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』『ゾンビ』『死霊のえじき』)と新3部作(『ランド・オブ・ザ・デッド』『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』『サバイバル・オブ・ザ・デッド』)がある。
「ゾンビ映画が多すぎて、どれを見たらいいかわからない!」という人には、僕は「とりあえず『ゾンビ』」とオススメしている。
ゾンビの恐怖とコミカルさ、暴力と残酷描写、ショッピングモールでの社会批評性など、どれをとっても一級品である。これ1本見れば、ゾンビとはどういうものか、基本的なことはすべて理解できると思っていい。

『アイ アム ア ヒーロー』連載開始時の時代状況

ジャンル・ムービーとしてのゾンビ映画は、2000年前後にはすでに「やりつくした感」があり、下り坂にあった。そのなかで『28日後…』などで「走るゾンビ」が再評価されたり、『ショーン・オブ・ザ・デッド』のようなコメディ作によって多様性が受容されると、徐々にゾンビ映画は息を吹き返し、『バイオハザード』シリーズや『デッド・ライジング』シリーズといったゲームや、マックス・ブルックスの小説『ワールド・ウォーZ』が世界的なベストセラーになるなどの追い風を受けて、世界的にゾンビ・ブームが再燃する。
いまでこそマーベル社はマーベル・シネマティック・ユニバース・シリーズ(『アイアンマン(Amazonプライム版)』や『キャプテン・アメリカ』や『アベンジャーズ』など)で人気を博しているが、その第1作目『アイアンマン』が2008年に公開される前までは、マーベル・ヒーローをゾンビ化する「マーベル・ゾンビーズ」シリーズを展開するほど、世界はゾンビ・フィーバーになっていた。

しかし、世界的にゾンビ熱が盛り上がる一方で、そのブームはなかなか日本には飛び火することがなかった。ゾンビ映画には大物俳優が出演することがなく、洋画の買い付けが敬遠される昨今の風潮もあり、劇場公開が見送られる(もしくは単館上映)ケースが多かったのも一因だろう。00年代終盤でも、まだゾンビ映画は一部の好事家のものとして認識されていたと思う。

2008年にロメロが『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』を公開、2009年には世界的な大ヒットを記録する『ゾンビランド(Amazonプライム版)』(日本公開は2010年)が公開され、さらに2010年からはテレビドラマ『ウォーキング・デッド(Amazonプライム版)』シリーズが開幕し、現在のゾンビ・ブームは確固たるものとなった。いまではアフリカ(『ゾンビ大陸アフリカン』2010年)、キューバ(『ゾンビ革命 フアン・オブ・ザ・デッド(Amazonプライム版)』2012年)、インド(『インド・オブ・ザ・デッド』2013年)と、ゾンビ映画は世界市場に拡大している。

花沢健吾が『アイ アム ア ヒーロー』の連載を開始した2009年は、世界的なゾンビブームが到来しつつも、まだ日本では着火していない時期であった。その時代状況は抑えておきたい。
第1集ではJR渋谷駅東口の立体歩道橋付近の情景が描かれているが、ギリシャ料理屋「エーゲ海」の看板が描かれているのが、いまでは懐かしい(2014年に移転のため閉店)。

日本のゾンビブームを牽引した『アイ アム ア ヒーロー』

『アイ アム ア ヒーロー』は、当初は作者の花沢健吾が自身をモデルにした「漫画家マンガ」のような体裁で始まった。しかし、第1集のラストでゾンビ・ホラーであることが判明するというショッキングな構成が大きな話題となり、第1集しか発売されていないにもかかわらず「このマンガがすごい! 2010」のオトコ編13位にランクイン(僕も3位に投票した)。のちにシリーズの累計部数は800万部を超え、2016年には大泉洋主演で実写映画化もされたが、マンガファンには最初から支持されていたことは付記しておきたい。

そんな『アイ アム ア ヒーロー』は、今年(2017年)の小学館「週刊ビッグコミックスピリッツ」13号で最終回を迎えたが、物語の結末は読者のあいだで賛否両論だった。いや、リアルタイムの印象としては、否のほうが多かったように記憶している。これだけ人気を博した作品が、なぜ最後は読者の支持を得られなかったのだろうか。

ゾンビ映画のエンディングの類型

話をゾンビ映画に戻すが、実はゾンビ映画の結末はバリエーションが少ない。おおよそ以下の3パターンに分類できるものと思う。
  パターン1:脱出エンド
         主人公がゾンビ密集地から脱出(例:『ゾンビ』など)
  パターン2:全滅エンド
         主人公死亡、町壊滅、世界滅亡(例:『バタリアン』など)
  パターン3:問題解決エンド
         治療法を発見し未来に希望(例:『ワールド・ウォーZ(Amazonプライム版)』)

結末を改変したウィル・スミス版の『アイ・アム・レジェンド』もパターン3に分類される(本来の原作はパターン2)が、基本的にパターン3はあまり多くない。
一般人が主人公の場合、ゾンビ感染の速度から考えると、主人公自身がゾンビ化問題を根本解決するのは不可能と判断するのが妥当だ。そのため、どうしてもパターン1かパターン2が「妥当性のある」ラストとなる。
また、基本的にゾンビ映画はジャンル・ムービーなので、第一の目的は怖さ(ホラー)の提供である。ゾンビ化の原因なんてものはマクガフィンであって構わないものであり、作中で明かされる必要はない。要は観客に恐怖とストレスを与え、それが最後に解消(もしくは後味悪く引きずる)されればいいわけで、物語的な整合性より「ジャンル・ムービーとしての到達度」が重視される。

一方で長編のストーリーマンガは、映画のように110分前後で終了するものではない。連載を追う読者であれば年単位での付き合いになる。コミックスを何冊も買えば、映画館で映画を1本観る以上の時間と出費をかけることになる。長編になればなるほど、読者はどうしても「わかりやすい結末」を求めてしまうのも人情で、パターン1やパターン2の「ゾンビ映画の王道」だと、読者はカタルシスを得られない。映画ファンとは異なり、長編ストーリーマンガの読者は、やっぱり謎は明かされてほしいのだ。つまり、正調なゾンビものは、長編マンガに求められる結末とは圧倒的に食い合わせが悪いと言わざるを得ない。ゾンビ映画だったら放置していても構わない問題(ゾンビ化の要因)が、長編に付き合ってきた読者には耐えられないのである。

くわえて『アイ アム ア ヒーロー』の場合、連載中に数多くのゾンビ映画が上映され、さらにゾンビマンガ・フォロワーが誕生し、いろいろなパターンや亜種のエンディングがやりつくされてしまった。ブームを牽引したパイオニアでありながら、読者のマンネリの打破に挑む必要が生じ、パイオニアであるからこそ、読者も目新しい結末に期待を寄せた面もある。何重にもハードルを上げられてしまった感は否めず、その点は同情に値する。

漫画家マンガとしての結末

さて、『アイ アム ア ヒーロー』のエンディングはというと、主人公の英雄は東京で生き残る。しかし、彼以外の生存者は存在しない。多数のZQNは合体して意識を集合していく過程で、中に取り込まれた少女の観測者効果(観察者がいなければ存在できない)的な発言と、「生きているほうが勝手に苦しむ」という比呂美の意識が支配的となり、ZQN集合体は活動を停止(パターン2とパターン3の複合)。もうひとりの主人公的な存在である中田コロリの一行はヘリコプターで脱出し、伊豆七島で余生を暮らす(パターン1)。

なお、ZQNの集合意識に関しては、どうせZQN(=吸血鬼やゾンビ)になるなら仲間になった方がいい、というパターン1~3にはない『流血鬼』的な結末が示唆されている。ある意味では、読者がどのキャラクターに感情移入するかによって、それぞれに合った結末が用意されていた、マルチ・エンディング形式の仕掛けが施されていたと考えられる。とはいえ、いかんせん英雄の主観で物語は幕を開け、進行してきたため、コンクリート・ジャングルにただ一人たたずむ英雄の姿を「妥当性のあるラスト」と感じなかった読者が多かったのだろう。

英雄は、日々の暮らしを“生きる”ことに純化させた。それは中田コロリとは対蹠的だ。コロリは孤島でもマンガを描く。英雄とコロリの生活環境の安定度には差があるが、たとえば英雄は都内中を散策している最中に、新宿・世界堂のような大型文具店からマンガ用具を調達することはない。暮らしの合間にマンガを描くようなことはない。読者(島の子供)の有無も要因としては大きいが、英雄なら飛び出し坊やとか銅像を読者に想定することだってできるはずだ。池袋のビルの屋上で自分の作品を思いがけず見かけ、忘れていた「マンガ家としての自分」を思い出すきっかけがありながら、英雄は筆を取らなかった
一方のコロリは、描かざるを得ない人間である。作家としての性(さが)がそうさせる。かつての英雄は、コロリの才能、やさしさ、モテ度、売れていることに嫉妬した。英雄にとっての「なりたかった理想像」がコロリだったが、最後には両者を分かつ決定的な差が描かれている。

おそらく英雄は、死ぬ最後の瞬間まで、おびえながらたくましく生きていくだろう。
マンガ家を志した青年が、筆をおき、それでも人生は続いていく。漫画家マンガとしての体裁で始まった『アイ アム ア ヒーロー』は、漫画家マンガとしては、ひとつの帰結を見て幕を閉じたのである。
僕はこのラストを、支持したい。


ゾンビ映画のフォーマットは、そこにさまざまな要素を上乗せして、自分たちの物語を語ることができる。映画に、小説に、ゲームに、マンガに、縦横無尽にその世界を広げていった。この偉大なジャンルを確立したジョージ・A・ロメロに改めて敬意を表し、ご冥福をお祈りする。