蘇る『戦国自衛隊』
本作『戦国自衛隊』は、「コミック乱ツインズ戦国武将列伝」(リイド社)2014年2月号から連載されていた作品である。しかし、掲載誌が2016年8月号で休刊になると、本作は「コミック乱増刊」(リイド社)へと移籍。同誌の2017年4月号で連載終了となった。
タイトルからもわかるように、このマンガは半村良の同名小説を原作としている。1979年にはカドカワ映画『戦国自衛隊(Amazonプライム版)』が公開されたので、タイトルを聞いたことがある方も多いはずだ。主演の千葉真一がやたらと脱ぎまくる、アレである。
原作小説の初出は「S-Fマガジン」(早川書房)の1971年9~10月号。なぜ40年も昔の作品を、いまさらコミカライズするのか? そう思った人も多いだろう。
だが、僕は「このマンガがすごい!2017」のアンケートで、この作品を1位に選んだ。自分はこの作品のどこに魅かれたのか? 作品が完結した今、その魅力を再確認したい。
本作の作画を手掛けたのは森秀樹は、いわば劇画界の保守本流ともいうべき作家だ。小学館「増刊少年サンデー」でデビューした森は、『青空しょって』(少年サンデー)の序盤あたりまでは、あだち充っぽい絵柄やラブコメを取り入れた「80年代のサンデー」色の強い作風だった。しかし、『青空しょって』のストーリーが徐々にシリアスになっていくと、それにあわせて絵柄も劇画タッチへとシフトしていった。
タイトルからもわかるように、このマンガは半村良の同名小説を原作としている。1979年にはカドカワ映画『戦国自衛隊(Amazonプライム版)』が公開されたので、タイトルを聞いたことがある方も多いはずだ。主演の千葉真一がやたらと脱ぎまくる、アレである。
原作小説の初出は「S-Fマガジン」(早川書房)の1971年9~10月号。なぜ40年も昔の作品を、いまさらコミカライズするのか? そう思った人も多いだろう。
だが、僕は「このマンガがすごい!2017」のアンケートで、この作品を1位に選んだ。自分はこの作品のどこに魅かれたのか? 作品が完結した今、その魅力を再確認したい。
劇画の保守本流が『戦国自衛隊』を描く
本作の作画を手掛けたのは森秀樹は、いわば劇画界の保守本流ともいうべき作家だ。小学館「増刊少年サンデー」でデビューした森は、『青空しょって』(少年サンデー)の序盤あたりまでは、あだち充っぽい絵柄やラブコメを取り入れた「80年代のサンデー」色の強い作風だった。しかし、『青空しょって』のストーリーが徐々にシリアスになっていくと、それにあわせて絵柄も劇画タッチへとシフトしていった。森秀樹の劇画路線が決定的となったのは『墨攻』からである。『青空しょって』の連載終了後、1992年に小学館「ビッグコミック」で連載を開始すると、1994年には同作品で第40回小学館漫画賞・青年一般部門を受賞。その後も「ビッグコミック」で作品を発表し続け、『ムカデ戦旗』『戦国子守唄』では日本の戦国時代を舞台に時代劇を描いた。
やがて森は、『花縄』で劇画原作の大御所・小池一夫とタッグを組むことになる。そしてこの組み合わせは、小学館「週刊ポスト」連載の『新・子連れ狼』へとつながっていく。
もともとの『子連れ狼』は1970〜1976年に双葉社「漫画アクション」で連載された人気作(原作・小池一夫、作画:小島剛夕)だ。子連れの剣豪・拝一刀を主人公とした時代劇で映画化もされ、北米でも髙い人気を得た。
作画の小島剛夕は、『カムイ伝』(白土三平)の前半部の作画を担当していたことでも有名な、劇画界の巨人である。小島剛夕亡き後、2003年に小池一夫が『新・子連れ狼』を始めるにあたり、小島の“後継者”として指名したのが森秀樹であった。つまり、劇画界の生き証人ともいえる小池一夫によって、「白土三平〜小島剛夕〜森秀樹」のラインは劇画の保守本流として認定されたわけである。
やがて森は、『花縄』で劇画原作の大御所・小池一夫とタッグを組むことになる。そしてこの組み合わせは、小学館「週刊ポスト」連載の『新・子連れ狼』へとつながっていく。
もともとの『子連れ狼』は1970〜1976年に双葉社「漫画アクション」で連載された人気作(原作・小池一夫、作画:小島剛夕)だ。子連れの剣豪・拝一刀を主人公とした時代劇で映画化もされ、北米でも髙い人気を得た。
作画の小島剛夕は、『カムイ伝』(白土三平)の前半部の作画を担当していたことでも有名な、劇画界の巨人である。小島剛夕亡き後、2003年に小池一夫が『新・子連れ狼』を始めるにあたり、小島の“後継者”として指名したのが森秀樹であった。つまり、劇画界の生き証人ともいえる小池一夫によって、「白土三平〜小島剛夕〜森秀樹」のラインは劇画の保守本流として認定されたわけである。
そんな劇画の保守本流が『戦国自衛隊』に挑む。
これは劇画の世界における、ひとつの事件であった。
半村良の原作小説は、陸上自衛隊の一個小隊が戦国時代にタイムスリップするSF仮想戦記だ。隊を率いるのが主人公の伊庭義明三尉である。伊庭は、史実を書き換えようとすれば、時空の歪みを修正しようとする超自然的な作用が働き、自分たちは現代(昭和)に戻れるのではないか、と考える。そこで自衛隊は積極的に歴史に介入していくことになり、伊庭は長尾景虎(のちの上杉謙信)と手を結び、上洛をめざす。その途上、川中島で武田軍と死闘を繰り広げ、ついに京まで到達するが、この世界には織田信長が存在しないことに気づく。そして京都の妙蓮寺にて細川藤孝らに叛乱を起こされるわけだが、要するに伊庭自身が史実における信長の役割を担ったことでタイムパラドックスは生じなかった、というオチだ。この大筋は小説と映画は同じである。
ところが森秀樹版『戦国自衛隊』は原作を大きく逸脱していく。自衛隊が戦国時代にタイムスリップする、という基本設定は同じだが、タイムスリップ先の時代は天正十(1582)年。本能寺の変の直前の状況である。そこで主人公・伊庭三尉は、原作では登場しなかった織田信長と接触する。「信長を生かす」という史実改変をすることで、時空の歪みを修正しようとする超自然的な作用を起こし、元の時代(平成)へ戻ろうと考えるわけだ。
したがって森秀樹版『戦国自衛隊』は、基本設定以外は、ほぼオリジナルと考えていい。
原作小説が書かれた1971年は、70年安保闘争の直後である。「自衛隊の活躍を描く」ことは、かなり挑戦的でリスキーであったと思う。本来は「抜かずの刀」である自衛隊が、その能力をフルに発揮するのだから、『戦国自衛隊』には世相に対する批評精神が内包されていたと言える。
映画では、この「自衛隊の活躍を描く」の部分が映画的なスペクタクルとなった。「現代兵器が大暴れ」という、わかりやすい娯楽性は、本作のセールスポイントでもあった。
森秀樹版の伊庭三尉は、自衛隊の武力行使にかなり慎重な姿勢を見せる。昨今の日本の周辺事情や憲法議論の状況を鑑みるに、それが自然な流れだろう。いかにタイムスリップしたとはいえ、自衛隊として育成された人材がおいそれと武力行使に踏み切るとは考えられない。そこに逡巡があるはずだ。また、よるべなき時代に放り込まれた自分たちのアイデンティティを失わないためにも、自衛隊としての矜恃をより強く意識するのではないか。主人公がこの葛藤を消化しない限り、作品のリアリティを担保できないところに現代性が描かれている。
そのため本作は、原作を大きく逸脱していながら、原作の持つ批評性は損なっていない。
森秀樹版『戦国自衛隊』は、伊庭三尉が信長を本能寺から救出し、やがて両者は決裂する。伊庭三尉から「専守防衛」という自衛隊の理念を聞いた信長は「それは墨家か」と問う。墨家の「非攻」と自衛隊の「非戦」をオーバーラップさせるのは、いかにも『墨攻』で墨家の思想を描いた森秀樹らしい。
およそ2500年前、中国の戦国時代に墨子によって興された墨家思想は、韓非子をして「世の顕学は儒墨なり」と言わしめたほど隆盛を誇った。『墨攻』で森秀樹が描いたように、武装防御集団として各地の守城戦で活躍したものの、秦による中華統一事業が成されたあとは歴史の表舞台から忽然と姿を消す。それこそタイムスリップでもしたかのように。
『墨攻』(脚本:久保田千太郎、作画:森秀樹)は2006年に日中韓合作で映画化された。
中国の歴史において墨子の名前が再発見されるのは清朝末期の混乱期。孫詒譲(そん いじょう)、譚嗣同(たん しどう)、梁啓超(りょう けいちょう)といった改革派によって、文字どおり掘り起こされたのである。
これは劇画の世界における、ひとつの事件であった。
設定以外はオリジナルの森秀樹版『戦国自衛隊』
半村良の原作小説は、陸上自衛隊の一個小隊が戦国時代にタイムスリップするSF仮想戦記だ。隊を率いるのが主人公の伊庭義明三尉である。伊庭は、史実を書き換えようとすれば、時空の歪みを修正しようとする超自然的な作用が働き、自分たちは現代(昭和)に戻れるのではないか、と考える。そこで自衛隊は積極的に歴史に介入していくことになり、伊庭は長尾景虎(のちの上杉謙信)と手を結び、上洛をめざす。その途上、川中島で武田軍と死闘を繰り広げ、ついに京まで到達するが、この世界には織田信長が存在しないことに気づく。そして京都の妙蓮寺にて細川藤孝らに叛乱を起こされるわけだが、要するに伊庭自身が史実における信長の役割を担ったことでタイムパラドックスは生じなかった、というオチだ。この大筋は小説と映画は同じである。ところが森秀樹版『戦国自衛隊』は原作を大きく逸脱していく。自衛隊が戦国時代にタイムスリップする、という基本設定は同じだが、タイムスリップ先の時代は天正十(1582)年。本能寺の変の直前の状況である。そこで主人公・伊庭三尉は、原作では登場しなかった織田信長と接触する。「信長を生かす」という史実改変をすることで、時空の歪みを修正しようとする超自然的な作用を起こし、元の時代(平成)へ戻ろうと考えるわけだ。
したがって森秀樹版『戦国自衛隊』は、基本設定以外は、ほぼオリジナルと考えていい。
時代に対する批評精神
原作小説が書かれた1971年は、70年安保闘争の直後である。「自衛隊の活躍を描く」ことは、かなり挑戦的でリスキーであったと思う。本来は「抜かずの刀」である自衛隊が、その能力をフルに発揮するのだから、『戦国自衛隊』には世相に対する批評精神が内包されていたと言える。映画では、この「自衛隊の活躍を描く」の部分が映画的なスペクタクルとなった。「現代兵器が大暴れ」という、わかりやすい娯楽性は、本作のセールスポイントでもあった。
森秀樹版の伊庭三尉は、自衛隊の武力行使にかなり慎重な姿勢を見せる。昨今の日本の周辺事情や憲法議論の状況を鑑みるに、それが自然な流れだろう。いかにタイムスリップしたとはいえ、自衛隊として育成された人材がおいそれと武力行使に踏み切るとは考えられない。そこに逡巡があるはずだ。また、よるべなき時代に放り込まれた自分たちのアイデンティティを失わないためにも、自衛隊としての矜恃をより強く意識するのではないか。主人公がこの葛藤を消化しない限り、作品のリアリティを担保できないところに現代性が描かれている。
そのため本作は、原作を大きく逸脱していながら、原作の持つ批評性は損なっていない。
墨家思想と自衛隊理念
森秀樹版『戦国自衛隊』は、伊庭三尉が信長を本能寺から救出し、やがて両者は決裂する。伊庭三尉から「専守防衛」という自衛隊の理念を聞いた信長は「それは墨家か」と問う。墨家の「非攻」と自衛隊の「非戦」をオーバーラップさせるのは、いかにも『墨攻』で墨家の思想を描いた森秀樹らしい。およそ2500年前、中国の戦国時代に墨子によって興された墨家思想は、韓非子をして「世の顕学は儒墨なり」と言わしめたほど隆盛を誇った。『墨攻』で森秀樹が描いたように、武装防御集団として各地の守城戦で活躍したものの、秦による中華統一事業が成されたあとは歴史の表舞台から忽然と姿を消す。それこそタイムスリップでもしたかのように。
『墨攻』(脚本:久保田千太郎、作画:森秀樹)は2006年に日中韓合作で映画化された。
中国の歴史において墨子の名前が再発見されるのは清朝末期の混乱期。孫詒譲(そん いじょう)、譚嗣同(たん しどう)、梁啓超(りょう けいちょう)といった改革派によって、文字どおり掘り起こされたのである。
戦国時代より前に墨家思想が日本に伝来していたかどうかは不明だが、いずれにせよ信長との対話によって、伊庭三尉は乱世における自分たち自衛隊の在り方を強く意識できるようになっていく。
原作に登場しない織田信長は、本作の最重要キーパーソンだ。
本作の信長はチャ-ルズ・ブロンソンそっくりで、決め台詞は「うーん、曼荼羅(マンダラ)」。もちろん資生堂「マンダム」のCMのパロディである。「うーん、マンダム」で一世を風靡した1970年当時のブロンソンは49歳で、本能寺の変(天正十年)のときの信長は数え49歳。だいたい同い年だ。ちなみに信長の外見は、宣教師のルイス・フロイスは「背は中くらいで、華奢な体つき。ヒゲは少なく声は甲高いが心地いい」と『日本史』に書き残しており、その記述からは中世的な雰囲気を感じるのだが、本作の信長はブロンソンに似せているので非常に男臭い。そして、これでもかと親父ギャグを連発しまくる。本当に自由だ。
映画『戦国自衛隊』での自衛隊員たちは、はじめて戦国時代の合戦を目の当たりにし、敵将の首級を高々と掲げて鬨の声を上げている戦国武者を目撃すると、まるで蛮族でも見るかのように驚く。「未開部族の野蛮性に畏怖する現代人」というモンド映画的な衝撃もまた『戦国自衛隊』ならではの醍醐味といえるだろう。乱背に生きる人々が、平和慣れした現代人とは暴力に対するスタンスが違って当たり前だ。その「戦国時代人の野蛮さ」は本作でも強調されており、本作のブロンソン信長は豪放磊落で、それでいて「専守防衛」から墨家思想を想起するインテリジェンスを持ちあわせ、新鋭兵器にも興味を抱く。「未開部族の酋長」ではなく「高貴な野蛮人(Noble Savage)」の姿である。
高貴な野蛮人
原作に登場しない織田信長は、本作の最重要キーパーソンだ。本作の信長はチャ-ルズ・ブロンソンそっくりで、決め台詞は「うーん、曼荼羅(マンダラ)」。もちろん資生堂「マンダム」のCMのパロディである。「うーん、マンダム」で一世を風靡した1970年当時のブロンソンは49歳で、本能寺の変(天正十年)のときの信長は数え49歳。だいたい同い年だ。ちなみに信長の外見は、宣教師のルイス・フロイスは「背は中くらいで、華奢な体つき。ヒゲは少なく声は甲高いが心地いい」と『日本史』に書き残しており、その記述からは中世的な雰囲気を感じるのだが、本作の信長はブロンソンに似せているので非常に男臭い。そして、これでもかと親父ギャグを連発しまくる。本当に自由だ。
映画『戦国自衛隊』での自衛隊員たちは、はじめて戦国時代の合戦を目の当たりにし、敵将の首級を高々と掲げて鬨の声を上げている戦国武者を目撃すると、まるで蛮族でも見るかのように驚く。「未開部族の野蛮性に畏怖する現代人」というモンド映画的な衝撃もまた『戦国自衛隊』ならではの醍醐味といえるだろう。乱背に生きる人々が、平和慣れした現代人とは暴力に対するスタンスが違って当たり前だ。その「戦国時代人の野蛮さ」は本作でも強調されており、本作のブロンソン信長は豪放磊落で、それでいて「専守防衛」から墨家思想を想起するインテリジェンスを持ちあわせ、新鋭兵器にも興味を抱く。「未開部族の酋長」ではなく「高貴な野蛮人(Noble Savage)」の姿である。
なぜか戦国時代に恐竜が登場
さて、本作の特異性としては、自衛隊以外にも戦国時代にタイムスリップしてきた存在がいる点が挙げられる。それがラプトルだ。
ラプトルとは、中生代・白亜紀後期(約8千万〜7千万年前)に生息していた小型の肉食恐竜であり、ヴェロキラプトルのことである。21世紀の現代から過去の戦国時代へと自衛隊がタイムスリップするだけではなく、なんと8千万年前から“未来の”戦国時代へとラプトルがタイムスリップしてきている。400年前も8千万年前も同じ「歴史モノ」、とでも言うかのような大御所の鷹揚なスタンスが素晴らしい。
ラプトルとは、中生代・白亜紀後期(約8千万〜7千万年前)に生息していた小型の肉食恐竜であり、ヴェロキラプトルのことである。21世紀の現代から過去の戦国時代へと自衛隊がタイムスリップするだけではなく、なんと8千万年前から“未来の”戦国時代へとラプトルがタイムスリップしてきている。400年前も8千万年前も同じ「歴史モノ」、とでも言うかのような大御所の鷹揚なスタンスが素晴らしい。
ヴェラキラプトルは映画『ジュラシック・パーク』シリーズでもおなじみで、2015年公開の『ジュラシック・ワールド』では、主演のクリス・プラットが演じる主人公オーウェン・グレイディに手懐けられ、ワールド内で調教されていた。
クリス・プラットが両手を広げて制している3頭の恐竜がラプトル。
映画では人間が乗れるほどの大きさで描かれたが、それは作中の品種改良(もしくは遺伝子操作)によるもので、実際には全長が約2メートル、体重は15キロ程度とされる。近年の研究では、前肢の骨に鳥類特有の特徴(羽毛が生える土台となる小突起)が確認されており、きわめて鳥に近い種類であると考えられているようだ。そのため復元模型や復元図では羽毛の生えた姿で示されることが多い。『戦国自衛隊』では、「今の動物でいえば柴犬ほどである」(第十一話「俺たちに明日はない」3巻収録)と説明されており、戦国時代の野武士からは「猿軍鶏(ましらしゃも)」と呼ばれている。その大きさや特徴は最新の研究に基づいており、こちらの時代考証もバッチリである。
クリス・プラットが両手を広げて制している3頭の恐竜がラプトル。
映画では人間が乗れるほどの大きさで描かれたが、それは作中の品種改良(もしくは遺伝子操作)によるもので、実際には全長が約2メートル、体重は15キロ程度とされる。近年の研究では、前肢の骨に鳥類特有の特徴(羽毛が生える土台となる小突起)が確認されており、きわめて鳥に近い種類であると考えられているようだ。そのため復元模型や復元図では羽毛の生えた姿で示されることが多い。『戦国自衛隊』では、「今の動物でいえば柴犬ほどである」(第十一話「俺たちに明日はない」3巻収録)と説明されており、戦国時代の野武士からは「猿軍鶏(ましらしゃも)」と呼ばれている。その大きさや特徴は最新の研究に基づいており、こちらの時代考証もバッチリである。
作中、1巻第二話でラプトルが唐突に登場し、その時点ではなんの説明もされない。猿軍鶏が何なのか、本当に恐竜なのか、なぜ戦国時代にいるのか。多くの疑問を残したまま、野武士の手を離れ野良恐竜になると、しばらく出番がない状態が続く。やがて第十一話で再登場を果たすと、そこでラプトルの物語が語られる。戦国時代にタイムスリップしたラプトルは捕食以外の戦う道を見つけ、死者を弔う行為を覚え、そして武士道に目覚めていく。
恐竜が武士道に目覚めるのである。
いまだかつて、そのような歴史マンガがあっただろうか。というか、まずもって誰も思いつかない。
恐竜が武士道に目覚めるのである。
いまだかつて、そのような歴史マンガがあっただろうか。というか、まずもって誰も思いつかない。
掲載誌が休刊し、別雑誌に移籍して以降の展開は、やや駆け足になった感は否めない。
とはいえ、ベテランの域に達した“劇画の保守本流”が自由闊達に好きなものを描いているという多幸感が作品にいきわたっている。「俺はこれ、好きで描いてるんだよね」といった波動が、作品の達成度や質とは別のところで、読者に満足度を与えてくれるものだ。
その意味では、森秀樹版『戦国自衛隊』は、最高にハッピーな作品といえるだろう。
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