映像が伝えるサッカーの魅力は3割程度
気がついたらFC東京のシーズンチケット(ソシオ)を18年連続で購入している。毎年毎年アホみたいにサッカーを見続けていると気づくこともあって、実際のところテレビはサッカーの面白さを3割も伝えない。
まず映像にはフレームの制限がある。
スタジアムでは観客はピッチ全体を見渡せるので、チーム全体のバランス、選手個々のオフザボールの動き、動きの連動したスペースの作り方(および埋め方)、パスへの角度のつけ方など、とにかく視覚からの情報量が段違いだ。
一方でテレビの中継はどうだろうか。
インプレー中にも関わらずリプレイ映像を再生したり、選手の顔をアップにしたり、観客が得られるはずの情報をスポイルしてどうでもいい情報ばかりにウェイトを置く。プレースキックのときにキッカーをアップにしてペナルティエリア内の動きをまったく映さないスイッチャーは、視聴者に何を提供したいのだろうか。ゴールキーパーの蹴ったボールが宙を舞う姿をアップで映し続けるカメラマンは、映像芸術賞が欲しいようだ。
サッカーという競技は、ピッチ全体の広さの割に、トランジション(攻守の切り替え)の数が多い。それが試合にダイナミズムを生むのだが、あらゆる展開の可能性を映像として拾い続けるには、俯瞰ロングショットでの定点観測しかない。しかし、それではスポーツ中継としてのエンターテインメント性を満たせない(とテレビ局は考える)。取捨選択の結果として現在の放映スタイルがあるのは理解できるが、その取捨選択に「サッカーを楽しませよう」という気概が感じられないのが問題なわけだ。
だからサッカーはスタジアムで見るに限る。
映像ですら本来の魅力を3割も満たせないのに、ではマンガの世界ではどうなのか?
たしかにサッカーマンガには『キャプテン翼』や『シュート!』、最近でも『DAYS』や『GIANT KILLING』などヒット作が多い。
キャラクターやストーリーなど、それぞれ趣向を凝らしていて、どれも魅力的な作品だ。ただ、競技の魅力を伝えるという点において、僕がもっとも感心しているのが『BE BLUES!〜青になれ〜』である。
では、『BE BLUES!〜青になれ〜』が伝えるサッカーの魅力とは何だろうか。
天与の才をいったん失い、チカラを再獲得する物語
『BE BLUES!〜青になれ〜』の主人公・一条龍は、将来は日本代表入りを夢見るサッカー少年だ。華麗なテクニックを持ち、同年代では抜きん出た存在であったが、不慮の事故によって手足や腰椎を骨折。日常生活もままならないほどの重傷を負ってしまう。しかし、龍は夢をあきらめない。
懸命にリハビリに取り組み、ピッチへと戻ってきた。とはいえ、かつてピッチ上で見せた輝きは失われていた。そこで龍は自分の回復状況に合わせてプレースタイルを変え、徐々にボールタッチの感覚や試合勘を取り戻していく。
やがて高校生になった龍は、埼玉の強豪校・武蒼高校のサッカー部に入部。合宿やプリンスリーグで存在感をアピールし、最新28巻では、高校選手権予選の決勝戦を戦っている。
……と、このように『BE BLUES!〜青になれ〜』はストーリーやキャラクターの面でも十分に魅力的な作品であることは前もって伝えておきたい。
天与の才を、いったんは失い、努力によって再獲得するプロセスは、子供が大人社会の構成員になるための通過儀礼(イニシエーション)の物語であり、少年マンガでは繰り返し語られてきた(そして今後も語られ続ける)永遠のテーマである。本作では、その過程において「両親と離れる」ことが象徴的に描かれていて、この「少年マンガの成長譚」としての面でも僕は本作を高く評価しているのだが、そのうえで本作の描く「コーディネーション」の巧みさについて説明したい。
コーディネーション能力
コーディネーションとは、簡単に言えば、自分の身体やボールを意のままに操る能力のことだ。日常生活はともかくとして、スポーツなど複雑な動きを要求される競技においては、人間の身体を自分の思い描いたとおりに動かすのは難しい。アスリートは日頃からトレーニングを積んでいるから、自分の身体を自在に動かすことができるのだ。また、ボールを扱う能力にも同様のことがいえる。「自分の身体とボールとの関わり方」をどれだけ習熟しているか。それがボールとのコーディネーション能力、ということになる。
たとえばシュートのうまさとか、フェイントのうまさとか、パスの正確さといったのは「テクニック」の部類であり、時間の使い方や、スペースの使い方や、周囲の選手への指示などは「戦術眼」の部類に入る。一般的に「サッカーがうまい」選手とは、テクニックや戦術眼に秀でた選手を指すことが多い。ボール・コーディネーション能力は、あくまで身体やボールの扱いのうまさを意味するので、コーディネーション能力の高さがイコール「サッカーがうまい」わけではない点に留意してほしい。
言葉で説明すると回りくどいが、試合開始の30分前にスタジアムに行き、ピッチ上でアップをしている両チームの選手をボンヤリと眺めていれば、すぐに理解できる。
われわれ素人目に見ても、ほかの選手に比べて「あいつウマイな」と思う選手が見つかるはずだ。ボールの扱い方を見るだけで伝わってくるのが、ボール・コーディネーションの能力である。そしてサッカー選手というのは、ある意味では「技術職」なので、コーディネーション能力に長けた選手に対しては、その選手の人格に対する感情的な面は度外視して、敬意を払うものだ。
作中で描かれるコーディネーション能力の実例
だが、この能力をマンガで表現するのは、きわめて難しい。マンガに出てくるキャラクターの、サッカー選手としての「すごさ」を示すには、派手な必殺技を使わせるのが早道だ。それはそれで「能力バトルのスポーツ版」として楽しめるのだが、しかし『BE BLUES!〜青になれ〜』はそれをしない。ワンプレー、ワンプレーの表現を積み重ねていくことで、そのキャラクターのサッカー選手としての個性を形成していく。
これは、とてつもない労力だ。
その苦労が見て取れる箇所として、まずはボールと選手の位置関係を挙げたい。
この作品で「技術がある」と言われている選手(一条龍、桜庭巧美、小早川忍など)は、自分の身体(足)とボールの位置が近い。つねに足下にボールを置いている。
同様に、ボールをトラップするシーンを見てみよう。「うまい選手」のトラップは、ぴったりと足下に落としているのではなく、次のプレーにつなげる位置にボールを落としている。だからディフェンスは、うかつにボールを奪いに飛び込むことができず、受け身に回らざるを得ない。
たとえば28巻P.78の桜庭のプレー。
ディフェンダーを背負った状態で、半身で反転しながら左足でパスを受けているが、トラップしたボールは右足手前に落としていて、すぐ次のプレーに移行できる姿勢を作っている。
P.104-105の一条龍のカットインしてからの左足シュートも、左足で切り返したボールが、すぐ左足でシュートを打てる位置にコントロールされている。
P.037の、サイドチェンジを受けた聖和台の選手と比較してほしい。
彼はトラップが大きくて、次のプレーにつながる位置にボールをコントロールできていない。だからこの選手は、前にスペースの空いた状態で、フリーでボールを受けていながら、武蒼の5番(レノン)に寄せられてしまい、サイドを突破してクロスを入れる選択肢が失われている。結果、この聖和台の選手が選択したプレーは、フォローに来てくれた8番の選手へのマイナスのパスだった。
この1コマで、この聖和台の選手がテクニカルなプレーヤーではないことがわかる。
「うまさ」表現
こうした「うまさ」は、ただボールの位置を選手に近づけて描けばいいというものではない。サッカー雑誌のグラビアをトレースした絵に、足下にボールを近づけても、この「うまさ」は生まれない。この「うまさ」は、「次のプレー」が何かを想定しているからこそ描けるものだ。ボールを受けた選手が、次に移行する姿勢が想定されており、そこに向かう中間動作を描いているからこそ説得力が生まれる。この中間動作の絵は、重心移動を念頭に置いたデフォルメ動作なので、身体に効果線を入れるだけで、身体がどの方向に向かって移動しているのかが理解できる絵になっている。
「動きが見える」のは、スポーツマンガとして非常に重要な要素だ。
そしてボールの軌道。マンガでは、同じコマの中にふたつ以上のボール(実像と残像)を描き、実像と残像のあいだに効果線を引くことで、ボールが動いている様子を表現する。このとき、効果線の幅、実像と残像の距離に変化をつけることによって、ボールスピードの強弱を表現しているのだ。トラップしてボールの勢いが殺され、そのボールが「次のプレー」の足下へとコントロールされている様子が、的確に描かれている。
サッカーでは、ひとりの選手がボールを保持している時間は、1試合を通じても多くて5分程度だ。その5分をできるだけ有利な状況で得るために、選手たちは1試合に10キロ以上もジョグとスプリントを繰り返す。つまりサッカー選手がボールを持っている状態というのは、それだけで見せ場なのだ。
その見せ場を漫然とではなく、有意義に使える選手こそが優れたフットボーラーであり、またそれが描けている『BE BLUES!〜青になれ〜』は、本当に「うまい」選手を描いている作品といえる。
動きの質にこだわった、非常にレベルの高いスポーツマンガなのである。
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