ドラマ化された『中年サラリーマン左江内氏』

2017年1月14日から3月18日にかけて日本テレビ系列で放映されたテレビドラマ『スーパーサラリーマン左江内氏』は、藤子・F・不二雄の『中年スーパーマン左江内氏』を原作としている。
『中年スーパーマン左江内氏』は、平凡でさえない中年サラリーマンの左江内氏が、ある日突然、無理やり正義の味方にさせられてしまうSF中編だ。
タイトルからもわかるとおり、本作はアメリカンコミックの『スーパーマン』のパロディとなっている。



藤子・F・不二雄には、本作以外にも『スーパーマン』を下敷きにした作品が多い。まずは、本家スーパーマンについて述べておこう。
スーパーマンの正体は、惑星クリプトンで生まれた異星人である。
母星の爆発を察知した両親によって、生後間もないカル・エル(スーパーマンの本名)はカプセルに入れられ、地球へと逃がされた。アメリカの農場に漂着したカル・エルは、心優しい農夫婦によってアメリカ人(=クラーク・ケント)として育てられる。やがて成長したクラーク・ケントは、普段は正体を隠して新聞社に勤務するかたわら、“愛と正義とアメリカン・ウェイのために”スーパーマンとして悪人と戦うようになる。
スーパーマンの出生秘話は、さながら籠に入れてナイル川へと流されたモーセの生涯を彷彿させるものだ。また、スーパーマンの本名(カル・エル)は、ヘブライ語では「エル」が「神」を意味する点も見逃せない。1938年に『スーパーマン』を生み出したアメコミの原作者ジェリー・シーゲルはユダヤ系アメリカ人で、彼にとって馴染みのある物語(=『旧約聖書』)が作品の根底に流れていると指摘する評論家は多い。アメリカ社会で本名と正体を隠して活動するスーパーマンには、ユダヤ系移民の姿が投影されていたのかもしれない。
いずれにせよ、本家のスーパーマンは“愛と正義とアメリカン・ウェイのために”戦う愛国者だ。であればこそ、「もしスーパーマンがアメリカの農場ではなく、ソビエト連邦のコルホーズに落ちていたら」とのIF設定を活かした『スーパーマン:レッドサン』という傑作コミックも生まれたのだが、では藤子・F・不二雄的スーパーマンは何のために戦うのだろうか

藤子・F・不二雄の描く“スーパーマン”

スーパーマンをモチーフにした藤子・F・不二雄といえば、もっとも有名なのは『パーマン』(初出は1966年)だろう。小学五年生の須羽ミツ夫は、近所の空き地でスーパーマン(バードマン)と出会い、パーマンセットを渡され、無理やりパーマン1号に任命されてしまう
交通事故や火災などの日常的な災難から人助けをしたり、泥棒、怪盗、全日本ギャングドロボー連盟(全日本悪者連盟)、マッドサイエンティストらと戦う。その活躍が評価され、最終的には次期スーパーマン(バードマン)候補としてスーパー星(バード星)へと旅立つ。
なお、「帰ってきたパーマン」(藤子・F・不二雄大全集第2巻に収録)、『ドラえもん』の「影とりプロジェクター」(てんとう虫コミックス19巻収録、初出「小学六年生」昭和55年1月号)や「めだちライトで人気者」(てんとう虫コミックス24巻収録、初出「小学六年生」昭和55年4月号)などでは、スーパー星(バード星)に旅立ったあとの後日談が明かされる。

『スーパーさん』は、「少女コミック」1968年9月号に掲載された短編(『藤子・F・不二雄SF短編PERFECT版 第1集』収録)。
横町のスーパーマーケット「やすい堂」の娘が、ある日突然、スーパーマン(スーパーガール)に“ひとりでになっちまった”。近所の子供からスーパーマンの心得を教わった“スーパーさん”は、正義の味方として頑張ろうとするが、戦うべき相手が見当たらない
大金を持った男性の護衛を買って出るが、おせっかいが裏目に出る始末。さんざん失敗をやらかすが、その大金を持った男がじつは偽札づくりの犯人であった。怪我の功名で“スーパーさん”は一躍時の人となり、実家のスーパーは大繁盛してデパートを建てた。すると娘は、デッパ(『おそ松くん』のイヤミ)になってしまうのであった。
ダジャレでサゲる地口落ちであり、ナンセンス・コメディといえる。

『わが子・スーパーマン』は、「ビッグコミック」1972年3月10日号に掲載された短編(『藤子・F・不二雄[異色短編集]1 ミノタウロスの皿』収録)だ 。
主人公はサラリーマンのパパ。近所で通り魔事件が起きるたびに、息子のタダシ(小学校低学年と推定)が姿を消していたことに気づく。
タダシは近所の公園にテレビヒーロー「ウルトラファイター」の衣装を隠しており、幼稚な正義感でスーパーパワーを振り回し、自分にとっての“悪人”を懲らしめて回っていた。なお、タダシがスーパーパワーを身に着けた経緯は不明。スーツの有無に関係なく、平時でもスーパーパワーを発揮できる。
一方的な正義を信じる無分別な子供がスーパーパワーを手にしてしまった恐怖を描くブラック・コメディである。

『ウルトラ・スーパー・デラックスマン』 は、「SFマガジン」1976年1月号に掲載された短編(『藤子・F・不二雄[異色短編集]2 気楽に殺ろうよ』収録)。
日星商事に勤める平凡なサラリーマンの句楽兼人は、ある日、ウルトラ・スーパー・デラックス細胞によって超人になってしまう。
ウルトラ・スーパー・デラックスマンになった句楽兼人は、おのれの正義心にしたがい、あらゆる悪を懲らしめていく。しかし、善悪の判断基準は句楽の「悪いやつは悪い 良いやつは良い」という独断に依っていた。行き過ぎたビジランテ活動(破壊や殺害)により句楽は逮捕されるが、警察も機動隊も自衛隊も、彼には敵わない。小型核ミサイルをぶちこまれても平然としている。
ついには誰も句楽には逆らえなくなり、地球上から悪事は消え去ったが、彼はモンスターのように恐れられるようになった。
この作品は『わが子・スーパーマン』の大人版ともいえるだろう。

『中年スーパーマン左江内氏』の到達点

上記の作品を経て、「週刊漫画アクション」の1977年9月15日号から1978年10月26日号にかけて全14話で連載されたのが『中年スーパーマン左江内氏』だ。
平凡なサラリーマンの左江内氏は、ある日、怪しい男(先代のスーパーマン)につきまとわれ、後継者に指名される。左江内氏が選ばれた理由は、「最大公約数的常識家」「力を持っても大それた悪事のできぬ小心さ」「ちょっと見、パッとしない目立たなさ」の3つ。

スーパーマンを襲名した左江内氏は「出動すべき事件」をテレパシーで感知するが、彼自身が平凡であるせいか、あまり大それた事件は感じ取らない。娘がさらわれそうになったケースはともかくとして、ぼったくりバーでの揉め事や痴話喧嘩など、せいぜいが週刊誌レベルのものばかり。
左江内氏は平凡なサラリーマンとしての日常を送りつつ、半径数キロメートル圏内の平和を守るスーパーマンの活動を続けていく。
第11話「幽霊が団体で」は古典落語「おばけ長屋」を翻案したストーリーであり、それはとりもなおさず本作が落語と同様に日常的な出来事を題材にしていることを強く印象付ける。日常のなかにファンタジー要素を紛れ込ませることで、社会の位相を異なる視点からとらえ直し、われわれの平凡な世界が少し違って見えてくる構図は、藤子・F・不二雄のSF(すこしふしぎ)作品に共通する要素だ。

やがて左江内氏が遭遇する事件は、善悪二元論では片づけられないものになっていく。その過程で左江内氏は、正義とは何か葛藤する。
そして善悪の袋小路に入り込んだところで『パーマン』のパーやんと邂逅。“先輩スーパーマン”であるパーやんの「百人寄れば百の正義がある。」「当たり前のこっちゃがな。」「スーパーマンの力や責任を過大に考えるから、気が重うなりまんのや。」の言葉に慰められるのであった。

藤子・F・不二雄は「チカラを手に入れた凡人が独善的な正義を振りかざせば悲劇を招く」というストーリーを、シニカルなブラックユーモアとして、たびたび描いてきた。ここで言う「チカラ」とは、作中ではスーパーパワーとして描かれているが、金や地位、権力など、われわれの実生活に置き換えて考えることで、現代の寓話として解することができるはずだ。
『ウルトラ・スーパー・デラックスマン』 まではシニカルな視座であったが、しかし『中年スーパーマン左江内氏』においては、「百人寄れば百の正義がある。」という相対的な視点を持ち込むことで、シニシズムに堕しない道筋を示した。その点において『中年スーパーマン左江内氏』は、スーパーマンを題材にした藤子・F・不二雄作品群のなかでも異なった水準にある作品といえる。

なお『パーマン』には、1966~1967年に「週刊少年サンデー」や学年誌に掲載された通称「旧作」版(『藤子・F・不二雄大全集 パーマン』第1~6巻)と、1983年から「月刊コロコロコミック」で連載された通称「新作」(『藤子・F・不二雄大全集 パーマン』第7~8巻)がある。
スーパーマンを題材にした一連の作品群で「スーパーマンとは何者か?」「正義とは何か?」を試行錯誤した結果、たどり着いたのが新作『パーマン』である点に留意したうえで、新作『パーマン』を読み返してみると、旧作との味わいの違いを感じられるだろう。