「精神障害者移送サービス」を描いた実録マンガ

『「子供を殺してください」という親たち』は、押川剛によるノンフィクションを原作とするドキュメンタリー作品だ。

もともと日本では、自傷他害のおそれがある精神障害者は措置入院(精神科病院への強制入院)となっていたが、そうではない場合も、親族や関係者による「力づく」での移送が主流だった。ところが原作者の押川剛は、日本で初めて“説得による”「精神障害者移送サービス」を実践したのである。
親族からの相談を受け、精神科医療とのつながりを必要としながら適切な対応がとられていない人々を説得し、病院や施設へと移送する……。そんな「精神障害者移送サービス」を営む原作者自身が、実際に現場で体験したことがマンガで描かれていく。

日本のマンガには、社会問題を扱う作品が少なくない。
近年の例としては、『ほいくの王さま』(認可外保育所や待機児童問題)、『健康で文化的な最低限度の生活』(生活保護)、『ヘルプマン!』(高齢者介護)、『モリのアサガオ』(死刑制度)などが挙げられるだろう。本作『「子供を殺してください」という親たち』も、そのひとつに数えられる。

マンガは人気商売だ。それはつまり「社会を反映しやすい」メディアともいえる。
作中の説明では「厚生労働省によると精神疾患患者数はおよそ400万人(平成26年)」で、「約30人に1人が精神疾患で通院や入院をしている」とのこと。それは「実際に件数が増えている」のか「報告が増えて実数が見えてきた」のかはわからないが、われわれは以前よりも精神障害を身近な出来事として、あるいは自分にも起こりうる出来事として考えるようになってきた。
だからこそ、本作のマンガ化が実現したものと思われる。

作品の「当事者」は家族

さて、本作に登場する人物はというと、プレッシャーに押し潰され統合失調症になったエリート一家の息子、親に刃物を向けるアルコール依存症の男、母親を奴隷扱いし、ゴミ屋敷に住む長期ひきこもりの娘。なにしろ第1話(「#01:【ケース1】精神障害者か犯罪者か」)では、フルチンでバットをフルスイングする男がいきなり出てくるのだから、インパクトは絶大である。

前述した他の社会問題を扱った作品と本作とでは、大きく異なる点がひとつある。
それは利用者(移送される者)が当事者ではない、という点だ。
なにしろ医療を必要とする本人には病識(自分が病気であるという認識)がない。それゆえに、家族が移送サービスに相談し、施設や病院への入院手続きや移送を依頼してくるのだ。
つまり本作の当事者とは、移送される人物ではなく、その家族ということになる。であればこそ、本作は『「子供を殺してください」という親たち』と、親から発せられる言葉がタイトルに冠せられているわけだ。

どうしても移送対象者のエキセントリックな行動に目を奪われがちだが、本質的な問題を抱えているのは「家族」である。そのことは「#02:【ケース2】親と子の殺し合い 前編」と「#03:【ケース2】親と子の殺し合い 後編」によって強く意識づけられるだろう。

たとえば保育や生活保護や介護は、ケアするための施設や制度が存在する。それが不足している問題とは別に、「本当に必要とする人に届いていない」ことも問題視される。
精神障害の場合、これにくわえ、さらにもうひとつの壁がある。
それは世間体だ。
家族に精神障害者がいることを認めたくない親が、子供への適切な対応を鈍らせている事例が多いことは想像に難くない。精神障害者を抱える家族に、適切な医療やサービスの存在がアナウンスされたとしても、それを拒む心性が働いてしまう。

親たちは、子供に向き合うのではなく、世間体と向き合う。その結果、子供の症状は深刻化する。そうして、とうとう耐え切れなくなり、世間体を気にしていられなくなった段階で、ようやく出てきた言葉が「子供を殺してください」。
この作品の訴える問題の本質は、そこにあると思う。
われわれの社会は、世間体という圧力によって、家庭を座敷牢と化しているのだ。

違和感をそっと提示する作画的妙味

僕にもアルコール依存症や薬物依存症で施設に移送された人と接した経験がある。
こうした人々は、一見すると普通でも、どこか違和感を感じさせるものだ。
たとえば話し声。ボリュームの調整ができないのか、やたら声が大きかったりする。話す内容にしても、同じ語句を繰り返し使う傾向にある。

本作は、こうした違和感の描き方が抜群にうまい
「#01:【ケース1】精神障害者か犯罪者か」の荒井慎介を例にすれば、彼は外出時にシャツの上にスタジャンを着ているのだが、スタジャンからシャツの襟が片方だけはみ出している。
あるいは「#02:【ケース2】親と子の殺し合い 前編」の木村則夫。彼は初対面の押川に煙草をねだる。「初対面の人間に「煙草をくれ」や「ジュースを奢って」などと平気で言うのが彼らの特徴の一つ」と、その直後に解説され、僕はここに「あるある」と大きくうなづいたシーンだ。
木村の特殊性を際立たせようとするなら、通常のマンガ文法なら、ここは大きくクローズアップしがちだ。しかし本作では、そのエピソードをことさら際立たせようとはしておらず、まるで喫煙所や居酒屋で友人にお願いするような軽さで、初対面の押川に煙草をねだっている。
その自然さが、リアルだ。

マンガ担当の鈴木マサカズは、『銀座からまる百貨店 お客様相談室』では、デパートの「お客様相談室」を舞台にモンスター・クレーマーへと豹変する市井の人々描いた。
一見普通そうに見えて、少し接してみると「あれ、この人おかしいな」と思わせる描き方がうまく、豹変する人間ならではのサインをそっと提示するのが絶妙だ。この原作と作画は実にマッチしている。

なお、こうしたドキュメンタリー作品の場合、扱う題材自体にインパクトがあるため、登場人物の“キャラ立ち”はさほど重要視されない。というよりも、主人公の個人の物語を織り込むと、ストーリーが多重構造になって、とくに序盤は読者が困惑する危険性が高い。
また、キャラの主張が強すぎると、読者がその出来事について考える余地が生まれず、キャラの論に対する是非に終始してしまう
そのあたりを配慮してか、元来はアクの強そうな押川という主人公のパーソナルな部分を、極力抑え気味にしているように感じた。各話ごとのケース(移送対象者とその家族)を横軸とし、押川個人のヒストリーを縦軸として、小出しに展開していくバランス感覚は、のちに読者を複雑なケースにもついてこさせるための段階的な仕掛けだと理解したい。