トランボの一代記だった映画

グレゴリー・ペックとオードリー・ヘプバーンが出演した『ローマの休日』は、1953年にアカデミー原案賞(現在は廃止)を受賞した不朽の名作である。

もともとこの映画の脚本にはイアン・マクレラン・ハンターの名がクレジットされていた。しかし、それは名義貸しであり、実際に脚本を手掛けたのはドルトン・トランボであった。

なぜトランボは名前を公表できなかったのか?
それは「赤狩り」のせいだ。
第二次世界大戦後、ソビエト連邦との冷戦に突入したアメリカは、国内では共産主義者に対する苛烈な思想弾圧を行うようになる。
1947年、非米活動委員会が設置されると、委員会から19人の映画関係者に召喚状が送られ、このうち10人(ハリウッド・テン)が議会侮辱罪で有罪判決を受けた。
『ローマの休日』の脚本を書きあげたトランボは、このとき業界から追放されていたので、友人(イアン・マクレラン・ハンター)の名を借りて作品を発表したのであった。

昨年公開された映画『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』は、ドルトン・トランボの生涯を綴った伝記映画だ。
(映画字幕ではダルトン表記。本稿紹介作品『赤狩り』ではドルトン表記)

映画は、トランボを含む19名が非米活動委員会に召喚されたところから物語が始まる。
刑務所に収監され、出所後に仕事を失ったトランボは、変名を使って低予算映画の脚本を書きまくる。紆余曲折を経て名誉を回復するまでの、トランボと彼の家族の歴史が描かれていく。

作中、『ローマの休日』にはもちろん言及するものの、さほど時間を費やしているわけではない。『ローマの休日』が制作されるに至った過程は、現在「ビッグコミックオリジナル」(小学館)にて連載中の『赤狩り』に詳しい。

『赤狩り』は大河ドラマ

『赤狩り』の第1話では、まず冒頭に3つの映画作品が提示される。
猿の惑星』、『エデンの東』、そして『ローマの休日』だ。
この3作品には共通する項目がある、という。

続いて舞台はローマに移り、『ローマの休日』の撮影風景へと場面転換する。しかし、さらに作中の場面は転換し、原爆開発のマンハッタン計画に関与した人物たちのスパイ活動、およびソ連軍人の亡命物語が挿入される。
短いページ数の中で場所と時間が頻繁に行き来するが、『ローマの休日』撮影風景までがアバン、本編起点として「原爆開発(冷戦体制の開始)」が用意されているのだ。
つまり第1話の時点で、本作が「冷戦下におけるアメリカでの赤狩り」が主題であることが示唆されているわけである。
以後、時系列順に『ローマの休日』『エデンの東』『猿の惑星』を題材にしながら、各時代ごとの「赤狩り」の実態を描いていく。そうした本作の青写真が第1話で提示されている。

この第1集では、非米活動委員会が設置される経緯や、映画関係者19名が召喚されるあたりまでが描かれる。大きな時代のうねりを縦軸に、J・エドガー・フーヴァー(FBI長官)やウィリアム・ワイラー(『ローマの休日』の監督)、オードリー・ヘプバーンなどの「個人の物語」が1話ごとに織り込まれている。
いわば「アメリカの赤狩り時代」を題材とする大河ドラマだ。
したがってトランボは、主人公というよりは、あくまで「第1章『ローマの休日』と赤狩りの始まり」における中心人物のひとりに過ぎない。
『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』のような、トランボを主人公とした伝記作品を期待していると、序盤はウィリアム・ワイラー監督が重要な役割を担うことが多く、なかなかトランボに焦点が当たらず、もどかしい思いをするかもしれない。
本作を読み進めるにあたっては、これが大河ドラマであるということを念頭に置いておくことをおススメする。

自由主義の難しさ

本作はまだ第1集しか出ていないが、その構成に巧みさを感じる。

前述のとおり、本作は冒頭に米ソ両陣営のスパイの活動が描かれるので、「赤狩り」は国内のスパイを検挙する目的で始まったことがわかる。
そこで読者は、はたと気づく。
では、ハリウッドの俳優や監督、脚本家は、どんな軍事機密を東側諸国に流出させたのか?

映画人が原爆クラスの兵器を作れるはずがない。
スパイ検挙の目的で始まった「赤狩り」は、「国益のため」の大義名分の下、早急に思想弾圧へと変容したのである。この変容の流れを、モノローグではなく、エピソードの連続によって成り立たせている。非常に手際が良く、スマートな要約の仕方だ。

この赤狩りで弾圧されたのは、共産主義者だけではなかった。トランボは確かに共産党員だった過去があるが、リベラルや反米的な思想はすべて「アカ」として断罪された。
知名度のあるハリウッドの映画人たちは、この思想弾圧を推進するために、民衆に「反共」思想を植えつけるために、一罰百戒の見せしめとして槍玉に挙げられたわけだ。

トランボたちの支持者の中には、共産主義者ではないものの、表現の自由を守るために賛同していた者もいた。第8話「ワイラーの孤立」では、聴聞会の結果について、支持者から以下のような苦情が噴出する。
「これじゃ我々まで共産主義者だと思われてしまいます。」
「我々はあくまで言論・表現の自由をうたう修正第一条を支持してるのであって、」
「そーだよなあ、俺…別に共産主義者じゃないし…」
修正第一条とは、アメリカ合衆国憲法修正第一条のことである。
(議会は、国教の樹立を支援する法律を立てることも、宗教の自由行使を禁じることもできない。 表現の自由、あるいは報道の自由を制限することや、人々の平和的集会の権利、政府に苦情救済のために請願する権利を制限することもできない)

こうした苦情の申し入れに対してワイラー監督は、
「その言論・思想・信条の自由には好き嫌いに関係なく、共産主義も含まれるんじゃないのかな。」
~中略~
「自分は共産主義じゃないが、修正第一条は支持する。」
「そのようなカッコ付きの表明は、共産主義者なら排除してもいいと言ってるのと同じで、」
「すでに修正第一条の精神を後退させてるんじゃないのかね。」
と応じている。
ここに自由主義の難しさがある。
と同時に、今日われわれが直面している表現規制の問題に共通する課題を見出すことができ、そこに約70年前の物語をいま読む意義があるのではないだろうか。

自分(政府)が許容できない表現を、あらゆる理屈をつけて正当化して、狩る。
社会的に「叩いてもいい人間」を、政府が設定する。トランボを糾弾した人びとのなかには、それを「国益のため、正しいこと」と信じて行動していた者も多いだろう。
だがこれは、極端なことを言えば、思考することを罪とみなすような行いだ。
不寛容を是とする社会は恐ろしい……のだが、下手したら本作で描かれるような体制の側にシンパシーを抱く人もいまは多いのではないか、という危惧もあるが。