理解するのが難しい数学の世界

僕は小学生の頃に珠算(そろばん)をやっていた。
市や県の大会に出れば、優勝したことはないけれど、かならず盾やトロフィーをもらって帰ってきたので、それなりに得意ではあったと思う。
小学校6年生の時には2段を取得した。
段位の検定試験は、最寄りの商工会議所や商業高校で行われ、試験問題には開法(関平・関立)も含まれる。要するに√(ルート)の計算をそろばんでやるわけだ。

かなりの難題も解くことができたが、これらはあくまで「計算」の話。
いま思い返すと、当時の僕は反射や反応で計算を解くスポーツ的側面を楽しんでいたようで、数学的な思考方法には興味がなかったらしい。
たとえば1から100までの数字をすべて足す計算であれば、「=101×50」の計算式を用いるよりも、愚直に1から100まで順番に珠をはじいていって、5050に到達する速度を競うのが好きだった。
いくら計算が得意とはいっても数学的な考え方ができるわけではなく、だから高校の数学はサッパリで、しょっちゅう赤点をもらっていた。

ともあれ、数学的な思考法とか、数学の楽しみ方といったものは、説明されてもピンとこない。常人には理解するのが非常に難しい世界……と思ってしまっている。
そんな数学や数学者の世界を題材にしているのが『はじめアルゴリズム』だ。

数学者の見ている世界を表現する

本作は、年老いた数学者が講演のために故郷を訪れるところからはじまる。
老数学者・内田豊は、廃校になって老朽化した中学校の校舎で、かつて自分が落書きした計算式を見つける。だが、そこで内田は大きく驚く。かつて自分が書いた計算式は未完成のものだったが、何者かがその続きを完成させていたのだ。
式を完成させたのは、まだ小学生の関口ハジメ。
ハジメの数学の才能に気づいた内田は、ハジメを数学者に導こうと決意するのであった。

数学を題材にしているとはいっても、『数学ガール』のように、実際に数学的な内容をメインに扱うわけではない。それよりは数学者たちの見ている世界を表現すること、数学者の天才性に焦点を当てた作品である(現在のところ)。
囲碁のルールを知らなくても『ヒカルの碁』が楽しめるように、あるいは将棋に詳しくなくても『月下の棋士』の対局に手に汗握るように、この作品は関口ハジメという天才数学者の見ている世界こそが主題となっている。
われわれの理解しにくい数学(および数学者)の世界が開示されていくであろうと、そんな予感を感じさせてくれる作品だ。

内田とハジメの「出会い方」に見る巧みさ

本作は、関口ハジメを主人公としたビルドゥングスロマンが基本軸となっている。
ハジメの数学的な知見の広がりが、彼にとっての世界の広がりと同期していくので、それはまるでハジメが手足を伸ばしていく鼓動の音が聞こえてくるようで心地がよい。

とくに印象的なのは、やはりハジメと内田の出会いだ。
計算式を通じて内田がハジメを見つける、という出会い方が素晴らしい。
実際に会ったことがなくても計算式を見ただけで相手の才能が理解できるという構図は、『天地明察』にもあったが、数学が題材であればこそ成り立つものだ。
読者は作中の登場人物と同様に、その計算式の主との出会いを心待ちにするので、それを冒頭の内田とハジメの出会いに持ってきている。
しかも、「ハジメが内田の式を継ぐ」というアイデアは、これから作中で内田とハジメの師弟関係が築かれていき、やがて“なにか”が師匠から弟子に継承されていくことを、実にわかりやすいかたちで読者に提示しているわけだ。このあたりは「うまいなぁ」と素直に感心させられた。

まだ刊行されているのは1巻のみ。
作者にとっては、これが初めての単行本のようだ。
掲載誌「モーニング」(講談社)の作品でいえば、『ピアノの森』の数学版、といった雰囲気を持ち、かつキャラクターの表情のつけ方やコメディリリーフの使い方(タイミング)は『GIANT KILLING』にも似て親しみやすい。
新人とはいえ安定度の高い作品なので、「数学」に拒否反応を示すことなく、すんなりと物語に入っていけるはずだ。


ちなみに(以下余談)。

以前、こちらのムックで原稿を書く際に、筑波大学の浅井武教授にお話を伺った。
浅井先生はサッカー部の総監督(当時)で、サッカーを物理学的にとらえる考え方の持ち主で、「Newton」にも寄稿されていたりする。

浅井先生に「キック力」についてたずねたところ、キックとはすなわち「物体(足)と物体(ボール)の衝突」であると、複雑な計算式を提示された。
そして「計算式で( )の外に出ているものが、もっとも影響度が高い」、つまりキック力にもっとも影響する要素は「振り足のスピード」であると説明してくれた。
それまで「キック力」といえば、筋力(パワー)のイメージが強かったので、これにはとても驚かされた。僕にとっては、計算式によって新しい見方を提示された好例だ。

数学や物理によって、ものの見方が変わるということは、確実にある。
そして『はじめアルゴリズム』は、僕たちに新しい発見や驚きをもたらしてくれる作品になる予感を漂わせているのだ。