深刻化した「ひきこもり」

「8050問題」という言葉を聞いたことがあるだろうか?
ひきこもりが長期化し、親とひきこもり当事者が高齢化して家族が困窮するケースを、「80代の親、50代の子」を意味する言葉として「8050問題」と呼称しているそうだ(もしくは「7040問題」)。

『若者の生活に関する調査報告書』(内閣府政策統括官)では、「ひきこもり」とは「趣味の用事の時だけ外出する」「近所のコンビニなどには出かける」「自室からほとんど出ない」といった状態が6カ月以上続く人のことを指す。内閣府による実態調査は2010年に初めて行われ、ひきこもり該当者は約69.6万人。2016年に実施された際には約54.1万人で、前回に比べ約15万人の減少だった。

この減少について内閣府は「政府の取り組みの効果が出ているのではないか」(日本経済新聞)とのコメントを出したが、そもそもこの調査における調査対象は15~39歳だ。
つまり、2010年から2016年までの6年間で、人口の多い団塊ジュニア世代が軒並み40歳以上になり、調査対象から外れただけにすぎない。最大のボリュームゾーンが調査対象外になったのを「(ひきこもりが)減った」と判断するのは、あまりに楽観的すぎると言わざるを得ないだろう。
批判が多かったからか、2017年末、内閣府は2018年度に40~59歳を対象にした初の実態調査を行うことを決めた(東京新聞)。

「ひきこもり」という言葉からは、未成年者の不登校などを連想するかもしれない。
しかし実態としては「7年以上」の期間が最多(34.7%)で、地方自治体の調査によっては、すでに半数以上が40歳以上との声もある。
ひきこもりの問題は、われわれが想像している以上に深刻化しているのだ。

カバーで示される2巻のテーマ

『「子供を殺してください」という親たち』の作品概要は、前回の記事を参照してほしい。
最新2巻では「母と娘の壊れた生活」(母親を奴隷扱いしゴミに埋もれて生活する娘)、「親を許さない子供たち」(鬱病を病みながら病院に行こうとしない息子)の2ケースが収録されている。
つまり2巻のテーマは「ひきこもり」だ。

まずはコミックスのカバーイラストを比較してみよう。


コミックスのカバーイラストは、登場キャラクターを大々的にフィーチャーするのがセオリーである。とりわけ1巻の場合、主人公のイラストを大々的に配置するものだ。
ところが本作の場合、1巻のカバー表1に主人公的(押川剛)の姿はない。それどころか、作中のエピソードとは無関係な匿名の人物の、それも後姿を描いている。
これはかなり異例なことだ。
僕は1巻のレビューで「元来はアクの強そうな押川という主人公のパーソナルな部分を、極力抑え気味にしているように感じた」と書いた。それは、インパクトの強いケースに読者を引き込む際に、情報が過多になることを避けるための仕掛けだと推察しているのだが、そうした配慮はカバーイラストの時点でも成されていることがわかる(押川は表4に小さく描かれている)。
一方で2巻のカバーイラストはというと、2巻収録エピソード「親を許さない子供たち」の登場人物・田辺卓也が描かれている。まさしく「ひきこもり」のパブリックイメージをそのまま描いたような絵であり、つまり今巻のテーマが「ひきこもり」であることがカバーイラストの時点で明確に打ち出されているわけだ。

主人公・押川の仕事は、対象者を“医療につなげる”こと。
「母と娘の壊れた生活」ではつなげることの難しさを、「親を許さない子供たち」ではつなげたあとの問題(医者の問題)を描く。
本作はこうしたステップの踏み方が抜群にうまい。読者に提供すべき情報の取捨選択が巧みで、読者を一定の理解度まで導く構成力が秀でている。やはりマンガというメディアは「段取りを段階的に伝える」ことに適しているものだ(半面、意図的なミスリードもしやすい)。

多数のひきこもりを抱えた日本の、あしたはどっちだ

2巻では主人公・押川のキャラクター性が少しずつ明らかになってくる点にも注目したい。前述のとおり、1巻時点では「元来はアクの強そうな押川という主人公のパーソナルな部分を、極力抑え気味にしている」印象だったが、この2巻では押川の業務面での手際の良さが際立つ。

その有能さとは、おもに以下のような場面だ。
家族からの感動的な“言い分”が提示され、うっかり情にほだされてしまいそうになるが、押川はその裏に隠れる異常性を見抜く。
また、どのような状況に直面しても、顔色ひとつ変えない度胸の据わり方。
あるいは、医者が第三者(押川)を排除したがっても、意に介さず(空気を読まず)に要求を突きつける押しの強さ。

一体この人は、どういう人なのだろうか?

この押川剛という人物には、どのようなバックボーンがあるのだろうか。
精神科医療の現場というショッキングな現実に目を奪われがちだった1巻から、段階的にケーススタディをステップアップしていき、慣れてきたころにキャラクターへ興味を持ってもらう。ここまでのソフトランディングは完全に成功しているので、別ケースを解決しながら押川の別の一面を見せたり、失敗シークエンスや過去編が来たりしても、読む側は柔軟に対応できるように心構えができている。ドキュメンタリーの役割を果たしつつ、主人公の物語を動かす下地は整ったといえるだろう。

さて、押川の描き方で、もうひとつ言及しておく点がある。
それは構図だ。
他の登場人物と対峙するシーン以外は、基本的に押川は左側(向かって左ページ側)を向く構図が多い。どの回にも共通することだが、より顕著なのは「#08:【ケース4】親を許さない子供たち 中編」だろう。卓也との会話シーンでは、とくに押川がページ左側を向く構図が多い。
基本原則として、マンガは右ページから左ページへと進んでいく。そして左ページの終点に到達すれば、ページをめくることになる。つまりマンガの文法においては、「左側は未来」なのである。『あしたのジョー』のラストショットを引き合いに出すまでもなく、「あした」はつねに左側に存在するわけだ。
精神疾患を抱えた利用者、とりわけひきこもり当事者たちの「止まった時間」を動かすのが押川の仕事である以上、押川の視線は未来志向でなくてはならない。このキャラクターの視線がつねに「あした」に向いているからこそ、この物語は推進力を得ることができて、重苦しい題材を扱っているにもかかわらず、よどみなく読み進めていけるのだ。


ちなみに。
細かい話になるが、P.109で卓也が母親の運転する車に乗車している際、卓也が着ているTシャツのロゴは(腕を組んでいるので見えにくいが)『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を連想させる。母親が息子との心中を考えるような、どう見ても「引き返しのつかない状況」に『バック・トゥ・ザ・フューチャー』。こういうブラックジョークは、僕は大好きだ。

それから、「#09:【ケース4】親を許さない子供たち 後編」で、いるか野病院に入院中の卓也が外出したシーン。卓也はパーカーを着ているが、フードの紐は抜かれている。留置所に差し入れする際には、パーカーの紐は取るように指示されるし、ベルトなどは却下されてしまうものだが、それらは自傷行為や自殺を未然に防ぐ意図がある、と説明されたことがある。精神科の入院患者に対しても同様の配慮がなされているのだな、と妙に納得したところだ。

こうした細かなシーンまで丁寧に設計されているので、「テーマが重いから」と敬遠せず、ぜひとも手に取ってもらいたい。