手塚治虫の天才性を「追跡(チェイス)」

本作『チェイサー』は、海徳光市という架空のマンガ家を主人公にした作品である。
舞台は昭和30年代。
“特攻隊くずれ”で戦記マンガを得意とする海徳光市は、この当時すでにマンガの第一人者となっていた手塚治虫を一方的にライバル視し、ことあるごとに手塚と自分を比較する。
徹底的に手塚の事績を「チェイス」するから「チェイサー」というわけだ。
(※作中のナレーションで海徳を「この人物は実在した!」と紹介しているが、もちろんそれはフィクションならではのハッタリである。)

マンガやアニメは戦前から存在したが、戦後、商業的に大きな市場を獲得していく際にパイオニアとしての役割を担い、業界を牽引したのが手塚治虫である。したがって本作を読んでいると、海徳光市がマンガ家として成功していくサクセスストーリーを楽しみながらも、戦後のマンガ・アニメ業界がどのように今日まで続くビジネスモデルを確立したか、その経緯がよくわかる。
また、現代まで伝承されている真偽不明の“手塚伝説”に対する海徳(というかコージィ城倉)なりの解釈が面白い。

以前、「このマンガがすごい!WEB」で、『チェイサー』について作者のコージィ城倉先生にお話を伺った(前編後編)が、本作は「天才とは何か?」との問いに対するコージィ流のアプローチだ。

「ビッグコミックスペリオール」(小学館)での連載は隔月掲載というゆったりペースで、すでに連載開始から6年になろうとしている(第1話は12年17号掲載)。
開始時にはひとりで黙々と机に向かっていた海徳だったが、アシスタント、チーフ、編集者、伴侶……と、「海徳ファミリー」の座組が徐々に形成されていく過程が楽しい。いや、その絵面から「海徳一家」と呼ぶべきだろうか。
前巻(第4集)ではついに「週刊少年ジャンプ」が創刊(昭和43年)され、これまで中堅作家だった海徳にも待望のメガヒット作『おれのドラゴンボウル』(ボーリングマンガ)が生まれる。
このパロディセンス、大好きだ。

(※昨年復刻された「週刊少年ジャンプ」復刻版。もちろん『おれのドラゴンボウル』は掲載されていない)

コージィ城倉は、森高夕次名義のマンガ原作者としても知られる(『グラゼニ』など)が、『おさなづま』では主人公・旗一子がマンガ(『めぐみのピアノ』)であれよあれよと成功を収めていくストーリーを手掛けており、この「トントン拍子の成功」を描くのは手慣れたものだ。自分の意思とは無関係の力学によってヒットやブームが胎動してしまう「他人事感」と「トントン拍子のリズム感」が心地いい。
そして今年1月に刊行された最新第5集では、いよいよ『おれのドラゴンボウル』のアニメ化の話が動き出す。

「マンガの神様」という呼称について

ここでは海徳がチェイスする“神様”について触れておきたい。
今日では手塚治虫を「マンガの神様」と呼称するのは常態化しているが、その呼称がいつから存在したのかを紐解こう。
「マンガの神様」のフレーズを最初に用いたのは、作家の開高健とされている。
開高健は「週刊朝日」の昭和39年2月21日号に「マンガの神様」と題した寄稿で、当時のマンガ状況や手塚治虫の非凡さについて書き記している。
このエッセイは『ぜんぶ手塚治虫!』(朝日文庫)で確認することが可能だ。
実際に「マンガの神様」の言葉が定着するにはもう少しの年月が必要だが、少なくとも同時代人から手塚がどのように見られていたかを知るための資料として興味深い。「マンガの神様」の語句は、彼の死後に事績を讃えるために送られた諡号ではなく、バリバリの現役時代からの二つ名であったというわけだ。実はこのあたりの感覚が、リアルタイムで手塚治虫を知らない後世のファンにとっては、わかりづらいところでもある。
ともあれ、同時代の同業者の中には、トキワ荘グループのように直接の面識はなくとも、海徳のような熱烈な手塚マニアがいたことは、リアリティのある話ともいえる。

「神様」の描き方

さて、本作における手塚治虫の描き方にはひとつの特徴がある。それは、つねに黒塗りのシルエットで描かれる点だ。そして、海徳は実際に手塚に対面することがなかった。
僕はこの手法に、『ゴドーを待ちながら』に通じるものを感じていた。
『ゴドーを待ちながら』は、『リウーを待ちながら』のレビューでも触れたが、サミュエル・ベケットの戯曲である。ふたりのホームレス(ウラディミールとエストラゴン)がゴドーという人物をひたすら待ち続ける話で、彼らはゴドーに会ったことがなく、たわいのない話を続ける。結果、ゴドーは現れず、ふたりはゴドーに会えずじまいに終わる。
この作品はさまざまな解釈がされているが、ゴドーを神(God)と見立てる説が昔からある。絶対的な存在(=神)は決して現れることがなく、人々はその「不在の存在」について論じたり、振り回されたりするだけである、という解釈だ。
海徳光市にとっての手塚治虫は、まさにそのような存在だった。

ところが、第4~5集では、このアングルに大きな変化が訪れる。
それまで遠巻きに見たり、すれ違ったりする程度だったところが、第4集で海徳は手塚と会談し、面識を得てしまうのだ。さらに第5集では、海徳作品についての手塚の評を聞くにまで至る。
この第5集では、世間や出版界における手塚の地位が低下した時代が描かれる(それは「少年マンガの世界の視座から捉えられた手塚像」ではあるが)のだが、登場人物たちのセリフのはしばしにも「手塚の凋落」が匂わされている。
かつて手塚プロの面接を受け、海徳同様に手塚マニアだったチーフの列土は、手塚の『ダスト8』(雑誌掲載時は『ダスト18』)を「面白いかもしれないけど“サンデー読者”には受けないだろーね~」(第5集28話)と冷静に言い放ち、集英社の担当編集の日下氏は「いいかげん手塚治虫の事はもうどーでもいいじゃないですか。」(第5集29話)と内心つぶやく。
あきらかな熱量の低下だ。

海徳だけはあいかわらず手塚を絶対視しているが、周囲の状況はめまぐるしく変化している。ここに本作のうまさがある。読者は海徳光市に感情移入して読むことによって、手塚治虫という一個の天才が世間にどのように受容されてきたのか、その変遷を客観視して見ることができるわけだ。

僕はここにフィクションならではの良さを感じた。
新聞やニュースなどの記録媒体は、起きた出来事を記録するのには向いているが、その当時を知らない人に、その当時の空気感を伝えることは難しい。ちょうど、いまの若者に冷戦時代のヒリついた空気感を伝えるのが困難なように。
しかしフィクションは、感情移入を手段として用いることで、その当時の空気感(に似たもの)を再構築する。たとえば『ロッキー4』(1985年)など、80年代のアメリカ映画には「西側諸国から見たソヴィエト連邦」の空気感が再現されているように。

『チェイサー』の場合、記録に関する側面(手塚の事績)と、海徳というフィルターを通した情緒的な側面を両立させている。もともとは歴史は、『古事記』『日本書紀』などを引き合いに出すまでもなく、起きた出来事を物語化して記録と情緒は不可分なものとして語るものであった。なるほど本作は「神様」をチェイスするための、現代の神話なのだと感じ入る次第である。

作中でついに始まる『ブラック・ジャック』

『チェイサー』第5集は、手塚治虫が「週刊少年チャンピオン」に『ブラック・ジャック』の連載(全4回予定)を開始するところで終わる。
コージィ城倉先生は前掲のインタビューで、以下のように語っていた。
――気になる今後の展開ですが、どのあたりまで描く予定でしょうか?

城倉 いまボンヤリ思っているのは、手塚が『ブラック・ジャック』の連載を開始するあたりまで。そのあとのことは『ブラック・ジャック創作秘話』を読んでください(笑)。
このインタビューは2014年3月に行ったものである(記事掲載は前編が同年7月30日、後編が8月4日)。そこから構想が変わっていても不思議はないが、物語が佳境に入ってきたのは確かだろう。
昭和48年11月。
この時期に虫プロは倒産する。
なお、虫プロ倒産時に手塚の版権をまとめ、債権者から守ったのが葛西健蔵(かっさい けんぞう)氏である。葛西氏はベビー用品の「アップリカ」の創業者であり、彼の実家が『鉄腕アトム』の学習机を売り出したことから、手塚と知己を得ていたという。
手塚と葛西氏の付き合いは、半自伝的作品『どついたれ』(未完)に描かれている。
キャラクタービジネスや版権といった、コンテンツ・ビジネスについてのエピソードとして、今後『チェイサー』でも触れられるのではないかと予想しておく。
あとは、「黒塗りの手塚」の素顔がいつ描かれるか、も気になるところだ。
僕の予想では「最後まで描かれない」だけど、これは鉄板馬券かな。

ともあれ、このマンガ界の創世記の行方を、ただ見守るばかりである。
っていうか海徳さん、平成元年2月9日を正気で迎えられるのだろうかと、かなり心配だ。


ちなみに。
最近は毎回のトビラ絵が、その回で題材にする手塚(および手塚プロ)作品へのオマージュになっているのも、ひとつの楽しみ。第5集ラストの第30話のトビラ絵は、もちろん『ミクロイドZ』のパロディ(チェイサーZ)になっている。『ミクロイドZ』は単行本化の際に『ミクロイドS』と改題した(改題理由は第30話ラストで明かされる)ので、作中(P.185)に描かれている見開きページは、現行の文庫版では見ることができない。なお、この第30話は、海徳の『おれのドラゴンボウル』が終わるかどうかの瀬戸際から物語が始まる。「『ドラゴンボウル』が終わったら『ドラゴンボウルZ』になるのか?」と読者に思わせるような、もうひとネタかぶせてきているあたりが楽しい。
このパロディセンス、大好きだ。


※本文中「手塚治虫」と表記していますが、「塚」は旧字体の「塚」が正式な表記です。しかし利用しているWEBサービスでは機種依存文字となるため、常用漢字の「塚」で表記しています。