地上波でも放映されたドラマ版『弟の夫』

3月にBSプレミアで放映されたドラマ版『弟の夫』(全3話)が、地上波でもゴールデンウィークに一挙放映された。本作は初放映の3月の時点で、すでに話題になっていた(記事)。
「ただ、NHKでこれらの企画が通ったのは、社会でLGBTへの理解が進みつつあることの表れと言えるかもしれません」
『弟の夫』の制作統括を務める須崎岳氏(NHKエンタープライズ)
公式サイトには、予告動画や田亀源五郎先生のインタビューが掲載されているので、ぜひともチェックしてほしい。DVD発売(2018年7月27日)の告知もあり。

原作についてのレビューは、こちらの記事に書いたとおりだ。
以前「このマンガがすごい!WEB」で田亀先生にインタビューをさせてもらったが、あわせて参照してもらいたい(前編後編)。

今回は、原作とドラマ版との違いについて記す。以下の記事にはネタバレを含むので、あらかじめ了承してほしい。

カミングアウトの年齢についての設定変更

原作からいちばん大きく変わった点を挙げるなら、それは弟・涼二が主人公(弥一)にゲイをカミングアウトするシーンだろう。原作では高校生の頃にカミングアウトしたことになっているが、ドラマ版では14歳に変更されていた。
わずか数年の差だが、この年頃の数年は大きい。
14歳はまだ幼さが残るが、高校生は18歳なら選挙権を持てる。知識の量や考え方が大きく変化する年代である(選挙権年齢が18歳に引き下げられたのは2016年、原作は2014年に連載開始)。
亮二のカミングアウトを受けた弥一は、原作では「ヘエ そうなんだ」と受容(というよりは拒否反応を示さずに態度を保留した形)するが、ドラマ版では「冗談だろ?」と、応じる。
この「冗談だろ?」というセリフは、決められた時間内に要素を詰め込まなければならないドラマなればこその、「わかりやすさ」を優先した直截的なセリフだと思う。
ある意味では、子供ゆえの無邪気な残酷さが出ているセリフだが、14歳は「子供ゆえの無邪気さ」のギリギリの年齢ではないだろうか。

こうした「わかりやすさ」を求めて原作から変更した点として、弥一と夏樹の離婚理由が明示されたことも挙げられる。ページを繰って容易に時間軸をさかのぼれるマンガと違い、一方向に時間が流れていくドラマでは、その都度その都度、視聴者の心に引っかかるフックのような説明が必要となるのだろう。原作連載時には「夏樹も故人では?」と読者が勘ぐったものだが、正味50分くらいのドラマ内でそのミスリードを入れ込むと、要素がトゥーマッチになってしまうだろう。
なお、弥一と夏樹の“休憩”も、ずいぶんとストレートな表現に置き換わっていた。

原作は青年誌に掲載されていたから、想定していた読者の年齢層も比較的高めだったと推測できる。原作マンガは“行間を読む”表現が多かったが、ドラマ版ではもう少し幅広い視聴年齢層に対応する作りになっている、との印象を受けた。

実写ならではの空気感

場の空気感がダイレクトに伝わるのは、実写映像ならではの利点だ。
冒頭、弥一とマイクの初対面での“気まずさ”は、原作を読んで感じたときよりも、より溝の深いものに感じられた。いや、作者が想定していたのは、それくらいの深度だったかもしれない。
このあたり、小説やマンガでは、読み手は自分の尺度に合わせて空気感を自動的にアジャストしているのだと気づかされる。制作サイドの意図した空気感は、実写のほうがより直接的に伝わってくるものだ。
さらに原作オリジナルの要素として、弥一の顧問弁護士が登場し、マイクが「遺産狙いでは?」との猜疑心が生まれ、弥一とマイクの“気まずさ”を増幅させる。

その空気感を一変させるのが夏奈である。
とにかく夏奈の子供らしい陽性の無邪気さが、場を和まし、“気まずさ”を押し流していく。夏奈を演じた根本真陽さんは、もしかしたら原作者が想定していたよりもはるかに可愛いのかもしれない。
田亀 夏菜に関しては「萌え」にはしたくなかったんです。子どもとしてのかわいらしさ、女の子としてのかわいさをおさえつつ、セクシャルなほのめかしとか、色気はいっさい入れたくなかった。
夏奈は「子供らしい無邪気さ」を発揮するが、それがポジティブな要素として作用しており、観ていて思わず「子はかすがい」の言葉が頭に浮かんでくる。根本真陽さんの発する「そっかぁ!」のセリフに、その「和ませ力」というか「気まずさ破壊能力」の高さを思い知らされた。

ちなみに、夏奈の背負っているランドセルの色が紫色なのも、本作らしい配慮といえる。

原作からカットせず残した表現部分

僕は原作マンガのレビュー記事で、本作には「活字で語るより雄弁なマンガ表現」が用いられていると指摘した。その具体例として、日常描写の正確さと、構図の使い方を挙げた。
第2話「寿司の天ぷら」(1巻収録)で提示されたメタファーが、第17話「わさびアイス」(3巻収録)で回収される「振り落ち」の振幅も、連載マンガならではの表現方法だと思う。

ドラマ版は、こうした「マンガならではの要素」が、カットされている割合が高い。
第6話(1巻収録)ラストの「月がにじむシーン」は、マンガでは名シーンだが、実写で再現しても視聴者には伝わりにくかっただろう。実写ドラマでやるには、もっと弥一の心性に比重を置いた物語に作り替える必要があり、それにはシナリオの大幅な改変が不可欠だったはずだ。「それはマンガと実写の事情が違うから、仕方のないことだ。

そうしたマンガ表現の中で、あえてドラマ版でも「(カットせずに)残した部分」として、弥一が自分の影に向かって話しかけるシーンに着目したい。原作では第11話ラスト(2巻収録)、ドラマ版では第2話に該当する。
心理学にはシャドウという用語があり、「自分の欠点や、認めたくない個人の意識として採用されなかった部分」を意味する。そして僕たちは、対人関係において苦手な相手がいる場合、その個人を苦手としているよりも、自分自身のシャドウを相手に投影しているケースもある。
僕は少年マンガにおける主人公と同世代のライバルの関係は、このシャドウの関係にあるものと思っているが、その話はここではさておくとして、弥一は涼二とは双子であるため、よけいに涼二に「ありえたかもしれない、もうひとつの可能性」を仮託しやすい。
僕はドラマ第2話を観たときに「なるほど、ここを残したんだ」と感心した。

原作に対するリスペクトが感じられる丁寧な作りのドラマだった。
原作はもう少し「考えながら味わう」ことに意識を払った作りなので、ドラマで本作を知った方にもぜひ原作マンガを読んでもらいたいと思う。

なお、ラストの「1年後」については、あれは読者や視聴者に向けてのサービスだと思っている。本編を原作同様の終わらせ方をして、「1年後」のテロップ以降のすべてをエンドロール中に回しても良かったんじゃないかな、と思ったけど、それはあくまで個人的な好みの問題。

社会的な課題

最後に。
差別やハラスメントは、現代では無視できない社会的な課題となっている。

差別やハラスメントは、対象者の人権を侵害する行為だからダメ。
それは、おそらく誰もが理解していることだろう。
そしてこの課題を考えるとき、マジョリティに属する側は、往々にして「俺はやらないよ」と考えるものだ。その「俺はやらないよ」の言葉には、「差別するつもりはない/俺を加害者側に含めないでくれ/(だから議論にも参加したくない)」が内包される。
だけど「俺はやらない」だけでは、社会から差別やハラスメントはなくならない。
なぜか。

それは、差別やハラスメントは、利益と結びつくからだ。
極端な例だけど、奴隷制度や男尊女卑の社会を想起してもらえれば理解しやすいと思う。特定の誰かの人権を侵害することは、誰かの利益につながる。だから、利益を追求した結果、差別やハラスメントに加担してしまうケースも多い。本人の意図とは別に。
社会構造自体が、差別やハラスメントを取り込んでしまっているのだ。
それは日本に限らず、どこの社会にも言えることとして。

だから「俺はやらない」ではなく、「俺の周りにも許さない」態度が大事である。
「俺はやらない」から「俺の周りにも許さない」へと意識づけをステップさせるのは、それまでの固定観念にとらわれていると案外難しい。『弟の夫』は、このステップの一助になる作品だと思っている。
僕たちには、日々の生活がある。暮らしがある。
誰もが「差別やハラスメントはダメ」と理解していても、全員がパレードやデモに参加できるわけじゃない。だけど、こうした作品への支持を表明したり、親しい友人や知人に勧めたりすることも、大切なことなんじゃないかと思う。日常の中で、楽しみながらできることを、見つけていけたら。

いきなりすべてを理解することは難しいけれど、だからといってそこに排除の理論は持ち込まず、「いろいろな人がいるね」とお互いを尊重できれば。


なお、田亀源五郎先生は、双葉社「月刊アクション」5月号(3月24日発売)から新作『僕らの色彩』の連載をスタートさせている。

主人公の井戸田 宙(いとだ そら)は、同級生で野球部の男子に恋をしている男子高校生。自分が同性愛者であることを自覚はしているが、そのことを周囲に悟られまいとしている。
「WEBコミックアクション」のサイトでは、第1話の試し読みが可能だ。