意外と少ないチンギス・ハーンが主役のマンガ
『ハーン -草と鉄と羊-』はチンギス・ハーンを主人公とする歴史冒険譚である。これまでもチンギス・ハーンやモンゴル帝国(元朝)をモチーフとする作品はあり、たとえば現在テレビアニメが絶賛放映中の『アンゴルモア 元寇合戦記』(たかぎ七彦)は元寇が題材である。
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また、『シュトヘル』(伊藤悠)はモンゴルに侵攻される西夏(タングート)の女戦士シュトヘルが主人公だ。13世紀のアジア中央部を舞台としつつも、現代日本がギミックとして物語に絡んでくる。
あるいは『夢幻の如く』(本宮ひろ志)では、本能寺の変を生き延びた織田信長は大陸へと渡り、チンギス・ハーンの墓で遺体(と霊)と対面し、草原の民を従わせる。
このようにチンギス・ハーンはフィクションの題材として好まれるものの、本人そのものを主人公とする作品は案外と少ない。なぜそのような傾向にあるかは、横山光輝『チンギスハーン』の影響を抜きには語れないだろう。歴史マンガの大家がすでに手掛けていることから、同じ題材に正面から挑むことに躊躇するのは致し方のないことだ。「歴史マンガとしてのチンギス・ハーンが読みたければ、横山光輝を読めばいいじゃないか」と。それはその通りである。
『王狼』と『王狼伝』(ともに原作:武論尊)についても触れておきたい。
この作品は、三浦健太郎が『ベルセルク』開始当初に、ほぼ並行して描いていたもので(文庫版にどちらも収録)、チンギス・ハーンの生涯を大きくフィーチャーした作品であったが、主人公は現代からタイムスリップした日本の青年だ。チンギス・ハーンとの“入れ替わり”、「チンギス・ハーン=源義経」同一人物説、主人公と同じく現代からタイムスリップした20世紀の現代兵器がモンゴル軍と対峙……といったSF要素をふんだんに盛り込んでおり、歴史モノというよりは、『戦国自衛隊』的な楽しみを求めるエンタメ色強い娯楽作品であった。
映画では角川春樹が製作総指揮の『蒼き狼 〜地果て海尽きるまで〜』(監督:澤井信一郎)があり、最序盤でテムジン(幼少期:池松壮亮)が異母弟ベクテルを射殺し、それをもって少年期の終わりとしているあたりは「あぁ、角川さんはやっぱり弟を殺すシーンを描きたかったんだなぁ」と妙に感心した覚えがあるが、ともあれマンガの世界ではチンギス・ハーンを主人公にした歴史マンガは少ないのが実状だ。
『ハーン -草と鉄と羊-』は、実にひさしぶりの、チンギス・ハーンが主人公の作品である。
「チンギス・ハーン=源義経」同一人物説
本作では「チンギス・ハーン=源義経」同一人物説を採っている。しかし、それ以外にSF的な要素はなく、リアリティラインの高い歴史異聞フィクション(例:『信長協奏曲』など)と位置づけたい。「チンギス・ハーン=源義経」同一人物説は、その真偽のほどはさておき、昔から根強い人気を誇る俗説である。夏目漱石『吾輩は猫である』にも、苦沙弥先生が公衆浴場に行き、「義経は蝦夷から満州へ渡り、義経の子が大明を攻めた」との話を聞くシーンがある。それほど昔から浸透している民間伝承なのである。
「チンギス・ハーン=源義経」同一人物説は諸説があるので、どの説においても根拠となっているおもな事象をまとめておこう。
・源義経とチンギスハーンはほぼ同世代要するに、ふたりは同年代にもかかわらず、義経の死後にチンギス・ハーンは活躍し、しかもチンギス・ハーンの前半生は謎に包まれていることが、この説の根拠とされているのだ。
(義経は1159年生まれ、チンギス・ハーンは1162~1167年生まれ)
・チンギス・ハーンは1178年にボルテと婚姻も、メルキト族に妻を奪われる
(1187年頃にボルテを奪還するまでの約10年がほぼ不明)
・義経が活躍している時代に、チンギス・ハーンの活動は不明
壇ノ浦の合戦は1184年、頼朝から追討令が出るのが1185年
奥州衣川で自害したとされるのが1189年
・テムジンがモンゴルで頭角を現すのが1189年以降
義経自身は「判官びいき」の語源になったように、日本では古くから人気の高い人物であり、その義経が大陸に渡って大活躍する物語は、日本人の心性に強く訴えるものがあるのだろうか。
さて、同じような傾向の作品として、『信長協奏曲』(こちらはタイムスリップだが)を前掲したが、物語として大きく異にする点がひとつある。
それは主人公の成長要素だ。
『信長協奏曲』の場合、高校生のサブローがタイムスリップし、顔が瓜二つの織田信長と入れ替わり、サブローが信長としての生涯を送ることになる。少年のサブローが戦国時代で様々な経験をし、徐々に大人(の戦国武将)に成長していくのが物語の骨子となっているわけだ。
対して本作『ハーン』の場合、物語開始時点で主人公(義経=テムジン)の年齢は30歳ということになる。日本で失脚したとはいえ、功成り名遂げたあと。少年から大人へと成長していく過程は、すでに過ぎ去った出来事なのだ。「チンギス・ハーン=源義経」同一人物説を採用する限りにおいて、主人公がどういう人物なのか、読者はある程度知っていることが前提となり、冒険譚の定型であるビルドゥングスロマン(成長譚)にはなり得ないのである。
では本作は、何によって物語的な推進力を持ち得ているのか?
貴種流離譚としての義経物語
本作の第1巻は状況説明に力点が置かれている。蝦夷から大陸へと渡った義経が、金からケレイトまで移動し、そこで「テムジン」の名を与えられる流転の物語であり、テムジンの行動を通じて本作の舞台設定を読者に周知させる機能を果たしている。
第2巻では、テムジンがモンゴルに居場所を見出し、そこで仲間をつくり、そして当面の敵が誰であるのかが判明する。第1巻が「舞台の用意」で、第2巻が「座組の紹介」といったところか。
この第2巻でのテムジンの行動に、本作の独自性が打ち出される。
テムジンがブフ(モンゴル相撲)をする際には日本式の相撲の技術が応用され、また敵に奇襲を仕掛ける際には一ノ谷の戦いにおける奇襲戦術(鵯越)が用いられるのだ。
つまり本作のテムジンは、何かを新規に開発したり発明するのではなく、すでに獲得している技術や知識を活用して、従前とは異なる世界で活躍していることになる。
「主人公がどういう人物なのか、読者はある程度知っている」前提条件を逆手に取った描き方である。
これは「小説家になろう」で大流行している「異世界転生モノ」を例に出すまでもなく、最近のエンターテインメント業界におけるトレンドである。この「異世界転生モノ」とは、突如として異世界に転生した主人公が、以前に所属していた社会で獲得した知識や技術を活用して大活躍するというパターンを基調とするフィクション小説だ。その転生先には、おもにファンタジー世界が好まれる傾向が強いが、「日本で活躍した武士(義経)が武家社会で死に、異世界(モンゴル)に転生し、日本で得たスキルを駆使して冒険する」と考えれば、本作『ハーン』も大枠ではその類例のひとつといえるだろう。
また「小説家になろう」では、2018年現在、「追放モノ」が支持されている。これは前出の「異世界転生モノ」の亜流であり、「特定の集団から無能の烙印を押され追放された主人公が、別天地では固有の能力を発揮して活躍する」のを基本パターンとするのだが、要するにこの物語構造は貴種流離譚なのである。「『チンギス・ハーン=源義経』同一人物説は、なろう小説の元祖」と言えばキャッチーかもしれないが、そうではなくて、もともと源義経の幼少期の逸話(鞍馬山の牛若丸伝説)自体が貴種流離譚であるのに、その義経をさらにもう一度流転させているのが「チンギス・ハーン=源義経」同一人物説であると気づく。
貴種流離譚にしても、異世界転生(的なる)モノにしても、最近のトレンドというよりは、古くから娯楽として愉しまれてきたジャンルであり、その両方の要素を併せ持つから「チンギス・ハーン=源義経」同一人物説はわれわれ日本人に愛好されてきたのだろう。付け加えるなら、なろう小説の異世界転生モノにはハーレム要素(主人公がモテモテ)も重要だが、チンギス・ハーンは複数のオルドを有し、一夫多妻で多くの子孫を残したので、その点においても現在のトレンドとの相性はいい。
ともあれ、こうした娯楽要素を作者が理解している(自覚的か無意識的にかはともかく)からこそ、『ハーン』にはブフや鵯越のシーンが盛り込まれているものと推測される。
「チンギス・ハーン=源義経」同一人物説自体は目新しい説ではないものの、「なろう小説」的なケレン味を盛り込み、さらに時代考証や描写の確かさによってリアリティラインを高めているのがこの『ハーン』という作品である。
義経が少しずつ大陸文化になじんでいく描写(羊の干し肉を食べられるようになる、など)には、『ふしぎの国のバード』や『乙嫁語り』のような、異文化探訪マンガにも通じる楽しさもある。そのため歴史に範をとった作品ではあるものの、異世界を舞台にしたエンタメ作品として気軽に楽しめるはずだ。普段は歴史マンガを読まない層にも、オススメしたい作品である。
最後に。
義経といえば、動物ではキツネのイメージが強い。
「源九郎義経」は異音で「げんくろうぎつね」とも読むことができ、浄瑠璃や歌舞伎の『義経千本桜』には、鼓の皮となった親狐を慕う狐忠信(狐が佐藤忠信に化身)が出てくる。
『ハーン』第2巻でテムジンは狐のような狡猾さでブフに勝利し、「俺は姑息に違いない」と語っているが、『元朝秘史』ではチンギス・ハーンは蒼き狼(ボルテ・チノ)とされる。
主人公をイメージする動物キャラクターが狐から狼へと変化するストーリー、というのをサブテーマとして本作を読んでいくのも面白そうだ。
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