『レディ・プレイヤー1』のストーリーについて
スティーブン・スピルバーグ監督の最新作『レディ・プレイヤー1』を観てきた。本作『レディ・プレイヤー1』は、作中の随所に80年代ポップカルチャーのアイコン的存在が散りばめられている。それが本作の大きな魅力のひとつであり、世界中のファンが、作中の小ネタや登場キャラクターの元ネタ、セリフの引用元などを楽しみながらリサーチしている。
しかし、本稿ではそれらには一切触れない。
あくまで『レディ・プレイヤー1』のストーリー部分についてのみ記していく。
というのも、この作品はもちろん楽しい映画なんだけど、ストーリー部分でどうしても気になる点があって、僕はなかなか素直にノれなかったのである。
その違和感の正体を、解き明かしていきたい。
なお、ストーリー部分へ言及するため、以下の文章にはネタバレが含まれる。
『オズの魔法使』の物語構造
僕はこの映画を見ている最中、ある映画を思い出していた。それは『オズの魔法使』だ。
まずは『オズの魔法使』のあらすじを簡単に説明したい。
孤児のドロシーは、カンザスの農場に引き取られ、老夫婦(ヘンリーおじさん、エムおばさん)と下働きのハンク・ヒッコリー・ジークとともに暮らしていた。あるとき竜巻に襲われたドロシーは、愛犬のトトと一緒に、魔法の国オズへと飛ばされてしまうのであった。
ドロシーは魔法の国で、脳のないカカシ、心のないブリキの人形、臆病なライオンと出会い、それぞれの願いを叶えるため、偉大なオズの魔法使いのいるエメラルドの都を目指し、黄色いレンガの道を歩いて行く。ドロシー一行は、どうにかエメラルドの都にたどり着くものの、オズの魔法使いは「西の魔女を倒せば願いを叶えてやる」と条件を出す。
言いつけ通り西の魔女を倒したドロシーたち。しかし、オズの魔法使いは、じつは魔法など使うことができないペテン師だった。ドロシー以前にこの「魔法の国オズ」にたどり着いていた、ただの人間だったのだ。
だが、ドロシーたちは気づく。
大切なものは、最初から自分たちが持っていたのだと。
ドロシーは「(カンザスの)家がいちばんいい」と願い、魔法の国に来た時から履いていたルビーのスリッパ(原作では銀の靴)で、魔法の国からカンザスへと戻るのであった。
現実世界に居心地の悪さを抱えている少女が、内面的な世界(魔法の国)で“気づき”を得て、そして現実に立ち向かう。少女とその同行者たちは、旅(冒険)を通じて、自身の欠損を埋める。普遍的な冒険譚であり、最終的には「自分の居場所で、現実に向き合う」からこそ、ただの幻想物語ではなく、読者/視聴者の心にいつまでも響き続けるのだ。
この物語構造は『千と千尋の神隠し』にも共通している。
親の転勤で引っ越しを余儀なくされた千尋は、神々の住む世界に迷い込んでしまう。そこでカオナシ、ネズミ(坊)、ハエドリと一緒に銭婆に会いに行き、そして魔女(=湯婆婆)の出した難題をクリアし、やがて現世へと戻る。
この物語構造は普遍的であり、構造そのものに強いメッセージが組み込まれているから、何をモチーフにしようと、世界中の人々から支持され続けている。
リアルは大切だというけれど……
『レディ・プレイヤー1』に話を戻そう。本作の主人公ウェイド・ワッツは、現実社会ではコロンバスのスラム街に暮らす少年だ。両親はすでに亡く、叔母に引き取られて養われている。現実世界では社会の底辺の貧困層だが、仮想世界「オアシス」の中では、イケメンのアバターを用い、パーシヴァルというプレイヤーネームで、仲間たちとともに充実した生活を送っている。
ウェイドは、この世界の創始者であるジェームズ・ハリデーのイースターエッグ(≒遺産)を手に入れるために、ハリデーの遺した3つのクエスト(鍵探し)に挑む。
ウェイドはIOI社による妨害(オンライン/オフラインともに)を受けながらも、「オアシス」で3つの鍵を手に入れ、「オアシス」の所有権と5000億ドルを現実世界で手にする。そして「オアシス」の運営権を継承したウェイドは、「現実社会のリアルをもっと大事に」のメッセージとともに、火曜日と木曜日を「オアシス」の休日にすることを決めるのであった。
現実社会で問題を抱えた子供が、現実とは異なる世界で仲間をつくり、冒険を通じて“気づき”を得て、帰還後に課題に立ち向かう。このように『レディ・プレイヤー1』のストーリーラインは、基本的には『オズの魔法使』と同じだ。仮想現実という、きわめて現代的(もしくは近未来的)な題材を扱いながらも、オーソドックスでウェルメイドな物語構造を取っていることで、僕は中盤までは、とても安心して映画の世界観に身を委ねていた。
ところが物語中盤、ウェイドの家はIOI社によって爆破されてしまう。
叔母アリスはウェイドを邪険に扱っていたし、リック(アリスの恋人)はウェイドに暴力を振るい、私物を強奪していた。彼らこそ、ウェイドが「立ち向かうべき現実」であったはずだ。
そのふたりが殺害された。
状況的に死んだのは間違いないし、以降の物語に登場しないことを考えると、このふたりは死んだと見て間違いない。少なくとも、物語からはスポイルされてしまった。
この物語は、どういった帰結を見るのだろうか?
僕はそこに着目しながら映画後半を観ていたが、結局、ウェイドはIOI社の野望を打ち砕くことはできたものの、彼個人の精神的な課題を克服するシークエンスはなかった。
この『レディ・プレイヤー1』の作中における現実世界は2045年。世界は荒廃し、人々はつらい現実から逃避するように仮想現実「オアシス」に没入している。その人々に対し、現実世界での課題に立ち向かう必要がなくなった若者が、大金を手にして豪邸で恋人とイチャつきながら「現実社会のリアルをもっと大事に」と諭すのは、あまりに物語を締めるメッセージとして乱暴ではないかと思う。
「オアシス」は「食事と睡眠以外はすべて」できる仮想現実なんだから、仲間と一緒に笑いながら、タブを飲みながらピザでも食べていたほうが、まだ多少なりともメッセージの説得力は増していたんじゃないだろうか。
僕がもし2045年の住人だったら?
もちろん「オアシス」に耽溺してるに違いない。そして、仮想世界の英雄「パーシヴァル」の檄に応じて、最終決戦の場に駆けつけ、それまでにお金も時間も注ぎ込んで育ててきた自分のアバターをロストしただろう。そこで出された英雄(=新CEO)からのメッセージが「現実社会のリアルをもっと大事に」……。ふざけんな、である。
ほの暗いイースターエッグ
いろいろ書いてきたけど、主人公が自身の課題に立ち向かわずにエンディングを迎えると、物語としてチャーミングさに欠けるんじゃないかと思う。ハリデーの隠したイースターエッグについても考えたい。
3つの課題は、すべてハリデーの人生に関する出来事がヒントになっているわけで、それはつまりハリデーの「僕を理解して!」という悲痛なメッセージだ。
ハリデーが「オアシス」の後継者に望んだのは、「自分と同じような志を持つゲーム制作者」ではなく、「自分を理解ろうとしてくれる消費者」であった。それは海賊王ゴールド・ロジャーがひとつなぎの財宝(ワンピース)を世界のどこかに秘匿したと公表することや、ジェダイ・マスターと弟子の関係とはおおいに異なる。大名が自身の後継者として、実子や譜代の重臣ではなく、事績を編纂するお伽衆を選ぶようなものだろうか。
ハリデーのイースターエッグはけっして明るい要素ではないので、だからこそ最後の子供部屋で、ウェイド(=パーシヴァル)、幼ハリデー、老ハリデーの3人でアタリのビデオゲームに興じているシーンでもあって、そこでラストの「thank you for playing」のメッセージが来れば、そのチャーミングな絵面にすべてがOKになったような気がする。
『レディ・プレイヤー1』は特定の時代や文化を愛でるムードに満ち溢れていて、もちろん、そういう映画だって大切なんだけど、ストーリー自体は「時計の針を進める」ような物語構造であるために、僕はそこに違和感を抱いたようだ。
最後に。
以下は『レディ・プレイヤー1』とは無関係な余談として。
僕は仮想世界を題材にしたマンガでは、篠房六郎『ナツノクモ』が好きだ。
この作品の舞台となるのは「リネン」社の制作したMMORPG。プレイヤーはフルフェイス型のヘッドマウントディスプレイと、データグローブを装着してゲームをプレイする。
この仮想世界でプレイヤーたちは思い思いに暮らしているが、そのなかに疑似家族を形成してグループカウンセリングをおこなっているギルドが存在した。主人公「コイル」はゲーム内で精神科医のカウンセリングを受けつつ、主治医の依頼で、このギルドへの接触を試みる。
「月刊IKKI」(小学館)に連載された当時(2003~2007年)は、ウルティマ・オンラインやラグナロク・オンラインなどのMMORPGの知識がないと理解が難しい設定だったかもしれないが、『レディ・プレイヤー1』がヒットしている昨今なら、この作品へも入りやすくなったのではないかと思う。00年代のオタク文化(の、おもに負の側面)を代表する作品として、本作を強くおススメしたい。
コメント
コメント一覧
ゲームに救いを求めた人が、主人公と同じような人が世界中にいるかもしれないのに強制ログオフディ設定するとか…
正直、主人公よりもマスターチーフアバターで最終決戦で突撃してった少年達のほうが余程感動的シーンでした。