同級生のA君について

はじめに自分のことを書く。
僕は6年一貫教育の中・高校に通った。
A君は同級生で、2~3回ほど同じクラスになったことがある。
A君とはたまに会話をする程度の間柄で、さほど親しかったわけではない。
彼は裕福な家庭に育ち、中学生ながら高価な腕時計をしたり登下校にタクシーを使ったり、少し世間ずれしたところがあった。
そのせいか、なかなか同級生に溶け込めず、浮いた存在だった。
A君自身も同級生を冷めた目で見ていたのか、誰とも深く交わろうとしなかったことを覚えている。

A君は次第に教室に顔を出さなくなった。
当時はまだ「ひきこもり」や「不登校」といった言葉はなく「登校拒否」と呼称していたが、A君は登校拒否なのだと誰もが認識していた。保健室や修道院へ“出席”していたそうだが、同級生のほとんどがA君と交流がなかったから、彼が何をしているのか、何を考えているのかは誰にもわからなかった。高校に上がる頃には、もうほとんど学校では見かけなくなり、このままでは彼は留年するのではないかと噂されていたほどだ。
だが実情は違った。
A君は両親に殺害され、山中に埋められていたのだ。

事件が発覚したのは、僕が高校を卒業して5~6年ほど経ってからだった。
TBS系列で放映されていた情報番組「ブロードキャスター」で特集が組まれ、僕は数年ぶりに自分の母校の外観やグラウンドを、モザイク越しに見ることになった。
伝え聞いたところによると、A君は家庭内では荒れていたらしく、たまりかねた両親がその手にかけてしまったのだという。
A君は「子供を殺してください」という親によって、殺害されてしまった。

【ケース5】の特殊性

ひとりの人生を救うのは、並大抵のことではできない。
それこそ、別の人間の人生を費やすほどの覚悟が必要となる。
しかし、それでは“共倒れ”の危険性が増すばかりだ。
家族の問題だから家族で解決しよう、などと考えずに、専門家の知識や経験に頼るべきである。精神疾患が絡むのであれば、なおさら医療機関の重要性は増す。
だが、なかなかそこに踏み込めない。
経済的事情や世間体などの理由から、専門家に頼るという“当たり前”の行動に踏み出せない。
踏み出せない結果、A君の家庭のような悲劇が訪れるケースも少なくない。
僕が『「子供を殺してください」という親たち』という作品に惹かれるのは、おそらくA君の事件が心に引っかかっているからだろう。
第1巻のレビュー
第2巻のレビュー

本作の主人公(押川)の役割は、対象者を“医療につなげる”ことだ。
親族からの相談を受け、精神科医療とのつながりを必要としながら適切な対応がとられていない人々を説得し、病院や施設へと移送する……のだが、誰でも彼でも助けるわけではない。
最新第3巻の冒頭には「#10:【ケース5】依頼にならなかった家族たち」という1話完結のエピソードがある。そこで押川は、相談しに来た親から費用について尋ねられ、「うちは高いんですよ」とフッかける。このシークエンスを読んだとき、僕は『ブラック・ジャック』を思い出した。
そこで相談者が、それでも「お願いします」と覚悟を見せれば、おそらくブラック・ジャックのように「それを聞きたかった」と物語は進んでいっただろう。
だが、この相談者は「そんなにもお金が必要だなんて……」と漏らしたあとに、「それでしたらいっそのこと」「あの子を殺してくれませんか?」と続ける。

本作において押川に相談に来る親たちは、身も心もボロボロになり、泥船で沈みゆく苦難のなかで「子供を殺してくれませんか」と発する。自分たちの子供に対する接し方に原因があるのはさておき、それは確かに悲痛な叫びだ。
だが、この【ケース5】の親の場合、自分たちの生活を維持したいがための、保身のために発した言葉である。同じセリフなのに、この親には“別の人間の人生を費やすほどの覚悟”がない。
だからこそ押川はこの親の相談を断り、「依頼にならなかった」のだが、僕はこの回に本作のテーマ的な部分を見た気がした。

それにしても「子供を殺してください」という、作品タイトルにも入れるくらいのパワーワードを、従来とは全く異なる意味で使うネームの巧さに着目したい。
ショッキングなワードであるがゆえに、それを使い続けると「水戸黄門の印籠」のようになる危険性もはらんでいた。長期連載の作品ほど、物語に定型をつくることが、読みやすさにつながることも事実だ。だが、こうした「同じ言葉でありながら意味が正反対の使い方」がされることで、マンネリ化を防ぐとともに、その言葉が持つ本来のスリリングさを風化させない作用が生じている。どのファクトも同じものなどなく、それこそ「テイラーメイド」なのだと、マンガの作り方自体がそう訴えている。
僕は2巻レビュー時点では、
精神科医療の現場というショッキングな現実に目を奪われがちだった1巻から、段階的にケーススタディをステップアップしていき、慣れてきたころにキャラクターへ興味を持ってもらう。ここまでのソフトランディングは完全に成功しているので、別ケースを解決しながら押川の別の一面を見せたり、失敗シークエンスや過去編が来たりしても、読む側は柔軟に対応できるように心構えができている。
と記した。この【ケース5】は、物語的な意味において失敗シークエンス(依頼が成立しない)だが、それをこのように利用できるのは、作品全体を見渡す目と構成力が確かであるからこそだ。
と同時に、この【ケース5】は「下半身の関係が絡む」【ケース6】への内容的な橋渡しになっている。こうした丁寧な積み重ねによって、重いテーマをよどみなく読者に受容させていく手際の良さこそが、本作の特徴(スペシャリテ)である。

作画的な注目ポイント

この【ケース5】では、押川の「無言のコマ」を普段よりも多めに(おそらく意図的に)使っているところにも注目したい。こうした間(時間的な経過)の使い方はペーソスを生む。この手法は倉田よしみ作画『味いちもんめ』によく見られ、ハッピーエンドでもバッドエンドでもない、独特な読後感を醸し出す。
そうしたところからも、相談内容は「いつものパターン」でありながら、これが「普段とは違う回」であると、僕たち読者は勘づく。

作画の面で、もうひとつ言及しておきたいことがある。
本作は「コミックバンチweb」でも読むことができるが、書籍もしくは電子書籍の見開き機能をオンにした状態での閲覧を推奨したい。
というのも、本作は「見開きでページを開いて読む」ことを前提として画面構成が成されているからだ。本作はタチキリのコマを多用しているが、マンガの基本原則を踏襲し、ノド側(トジ側)には一切使われていない。負荷をかけるコマ(緊張)と、タチキリを使って外に向かって開かれているコマ(開放)によって、全体のストレス・コントロールがおこなわれているので、各話の“緊張の流れ”を味わうには、見開きで読める状態が望ましい。
各巻に1カ所ずつ、見開きすべてを使った大ゴマでの見せ場もあるので、見開きで読んでその「開放」の効果を楽しみたい。

ストーカーが犯行に及ぶ、まさにその瞬間の心理描写

さて、第3巻のメインは【ケース6】のストーカー編だ。
このケースの対象者・宝田由伸は、昔の恋人につきまとい続け、刃物で脅し、逮捕された経験がある。示談成立後に釈放された由伸は、自宅でひきこもり状態になる。そして、夜間に外出しては元交際相手につきまとい行為を続けるのであった。
第3巻のカバーイラストは、由伸をモチーフにショッキングな内容が描かれている。しかし、【ケース6】を最後まで読み終えた後なら、また違った見え方がしてくるだろう。そこに込められた作者の意図にも思いを馳せたい。それにしても鈴木マサカズさんは「死んだ目」を描くのがうまい。

由伸のようにひきこもって孤立していると、視野がどんどん狭くなり、ネガティブなことばかり考えてしまうものだ。自分では愛情表現のつもりが、相手に対する執着心を増幅させ、ついには「殺す(死ぬ)しかない」と思い詰める。
傍から見たら加害者なのに、本人の意識では被害者なのだから始末に負えない。そのあたりの「当人と周囲の意識の齟齬」が、実にうまく、もどかしく表現されている。
自縄自縛……という言葉がピッタリだが、その強迫観念から抜け出すには、自分の価値観を相対化する「第三者の視点」が必要だ。

人生はすべて順調にいくわけではない。
受験や恋愛、就職、仕事、別離……と、ふとしたときに“つまずき”を経験する。
僕は「4人に相談すれば、どんな悩みも軽くなる」とアドバイスを受けたことがあるが、今の社会ではその「4人」を確保することが難しい。そもそも、何でも相談できる相手が4人以上いる社交的な人は、ここまで深刻な事態にならないのだろうけれど。
ともあれ、孤立した世界で考えが煮詰まってくると、自分と世界(もしくは特定の相手)が直面しているような錯覚に陥るので、ひきこもり状態は本当に危険だ。

作中で由伸が犯行に及んだとき、元交際相手(川野えりか)と同伴男性はリュックやバッグを背負ってえりかの部屋に一緒に入っている。ところが、深夜に外出した時にはふたりとも手ぶらだ。「もう終電がないような深夜」に女性の部屋に荷物を置き、一緒に買い物に出かける……。この様子を見た由伸は、彼女に対する疑念(もう新しい男ができたんですか?)を確信に変える。バッグの有無という細かな描写によって、由伸が犯行を決意した瞬間の心理的な変化が読み取れるわけだ。
モノローグやセリフで登場人物の心理をいちいち説明するのではなく、状況描写によって登場人物の心理変化を読者に悟らせる、なんて描き方は、読者のリテラシーを信用していないとできない芸当だ。いち読者として、制作陣に「信用してくれてありがとう」という気持ちになる。
ちなみに、このときの同伴男性はのちに再登場する。「まあ、コイツがえりかとああなってたら、由伸は誰にも相談できないよなぁ」と同情的な気持ちになるが、この彼もまた、川野えりかから被害を受けたひとりではないか、と想像するのもかたくない。それでも彼は由伸のように思い詰めていないわけで、その彼我の差を考えるのも面白い。


最後に個人的な感想として。
現代社会は、ストレスを受けることが前提のようになっている。
だから、対処法として「ストレスの発散」であったり、「もしも」に備えて対人関係でセーフティネットを築いておくことは理解できる。
ただ、ストレスを受けることが不可避である以上、心の耐性を高めてダメージを減らすことはできないものか、とも思う。動物が自分でグルーミングをして生体機能を高めるように、僕たちも自分の心を慰撫している……はずなのだが、そのための技術や知識はあまり語られていない。



僕はこれからも、この作品を他人に薦めていくだろう。